キャリアフォーラム in ヨーロッパ ~ロンドン~
ボストン、サンフランシスコと開催してきたキャリアフォーラムがいよいよヨーロッパへ。
ロンドンでの開催が決まりました。
1990年、私は東京の本社勤務だったので、ロンドンに行ったり来たりしながらロンドンでの開催準備を行い、その年は合計3-4ヶ月ロンドンで過ごす事になりました。
日本人の中には英国派と米国派に分かれると聞いた事があるのですが、学生時代から10年あまりアメリカ生活を送っていた私にとって英国との相性は最悪でした。
1990年当時のイギリスは、伝統を何よりも重んじるばかりに、生産性や機能性が犠牲になり、何をするのも慣習であったり紹介であったりが重要でした。
First Floorが一階じゃなかったり(イギリスでは2階がFirst Floor)アメリカでは問題なかった発音が通じなかったり・・・何をとっても納得がいかずイライラの連続でした。
ホテルから電話でアポを取ろうとしても、高級ホテルなのに電話機に留守電やメッセージランプの機能がなかったのです。
いや、高級ホテルだからなかったのです。
私の通話中に先方から電話が入った場合には、1-2時間後にきらびやかなお盆の上に、判読不明な筆記体で書かれた美しいメッセージを、ボーイさんがご丁寧に持って来たのです。
私がメッセージを見て電話をかけ直す頃には、担当者は帰ってしまっていて連絡がとれず、常にイライラ。ホテルからはとても仕事になりませんでした。
結局、キャリアフォーラムの荷物をお願いしている運送会社のロンドン事務所をお借りして、現地のオペレーションの拠点にさせていただき、現地のスタッフさんも手配してもらいました。
アメリカではコンベンション・ホールを借りるのに紹介者など不要でしたが、イギリスは「どなたのご紹介?」と鼻にかかった高い声で聞かれ、目が点に。
私がアメリカなまりの英語を話すアジア人女性だったので、余計いぶかしく思えたのかもしれません。
ロンドンに拠点のあるその運送会社さんのお陰で紹介者を紹介して頂いて、ようやく色々整ってきました。
私の苦戦の第一の要因は文化だったと思います。
英語は話せてもイギリスの文化に不慣れだったために、本格的にエンジンがかかるまでに相当時間を要しました。
改めて、キャリアフォーラムの様な採用の場で、言語のみならず現地の文化や慣習を学び取り、現地に対してリスペクトのある人材を採用する事は企業にとって大切である、と実感した次第です。
ロンドンやヨーロッパ全般で日本人留学生は少なかったこともあり、アメリカほどの規模にはなりませんでしたが、それでも優秀な学生さんがヨーロッパ各地から参加して下さいました。
日本はバブル絶頂期を迎え、各地で日本研究が盛んに行われており、ヨーロッパ各地で日本研究をした外国人学生が多数見受けられました。
英語と日本語を軸に、ヨーロッパ各地の言語も飛び交う正に国際的なイベントになりました。
そしてベルリンへ
ロンドンでの開催はベルリンの壁の崩壊の翌年。東欧で日本語を専攻していた学生も参加してくれました。
何と言っても旧共産圏の日本語の能力は抜群でした。
そう、スパイ教育の一貫として、旧共産圏は語学習得に大変力を入れていたのです。
ロンドンキャリアフォーラムの帰りにキャリフォーラムを主催する(株)ディスコ(以下ディスコ)の社長の一行は、ベルリンの壁を視察しに行きました。
日本語に堪能な旧共産圏の優秀な学生に驚嘆し、「日本での就職の機会を与えることによって経済復興支援になれば」と、そんな願いを込めてキャリアフォーラムをベルリンで開催する事になりました。
当時のベルリンはまだ壊された東西の壁の破片を道端で売っているような状態でした。
東西の格差はすざましく、東側は先進国とは思えぬほど殺伐としていたのが印象的でした。
ベルリンではドイツ語に堪能なスタッフを雇い、ドイツを軸に東ヨーロッパを含むヨーロッパ全域の学生への告知活動を中心に行ってもらいました。
私は日本から打ち合わせをしながら、開催数日前に現地入りし、主に会場の設営や搬入ルートの確保などを担当してイベントに望みました。
余談ですが、ドイツ(旧西側)のブース設営職人さんは日本人の様に緻密で職人気質でした。
ブースに掲示する社名のプレートや会場内の案内表示板は日本で作成して空輸していたのですが、ある職人さんが「このプレートは耐火仕様か」と聞いてきました。
この生真面目な職人さんは「会場の天井から吊るすものは、耐火仕様じゃないとだめだ。」と言い出したのです。
「相談コーナー」「休憩コーナー」など、案内板は会場のどこからでも見えるように天井から吊るすプランでした。
まさかまさかの質問でした。耐火仕様の素材を使うようにという指示は受けていませんでしたし、正直看板がどんな素材かも知りませんでした。
しかし後には戻れません・・・
私は焦りを顔に出さぬように気をつけながら、
「もちろん大丈夫ですよ。これはきちんと東京でテストしてきました。」と胸を張って答えました。
アメリカならば、通常コレで通用するのですが・・・
その職人さん、いきなりライターを出してプレートの一部を切り取って火をつけたのです!
眼の前でプレートがメラメラと音をたてて燃え上がってしまいました。
・・・
即座に作戦変更。一気にお願いモードに変身しました。
職人さんと目と目をあわせ、表情で「ごめんなさい」を表現しながら
「今からは看板は作り直せない・・・開催は明日・・・プリーズ(涙目)」
しばしの沈黙の後、「吊るせないけど、貼り付けるのならOK。」
そんなお言葉を頂いてピンチ脱出。
案内板は壁の高いところに貼り付けたり、長い取手を看板につけて、ブース上部のパイプにくくり付けたりすることに・・・ そんな工作をこの生真面目職人さんが手伝ってくれました。
吊るしても貼り付けても同じような気がしましたが、そこはあえて突っ込まず、終始笑顔でこの職人さんに感謝感謝。
ベルリンのキャリアフォーラムの思い出は、フォーラムそのものよりも、この看板メラメラ事件が一番印象に残っている次第です。
そうなんです、キャリアフォーラムには会場の隅々、看板に至るまで様々なストーリーがありました。
・・・・・
ちなみにベルリンのキャリアフォーラムは、私が退職した後に企画見直しになったそうです。
東欧にはとても優秀で日本語堪能な人材が沢山いらっしゃいましたが、そもそも企業のニーズから始まった開催ではなかったので、企画の練り直しとなったようです。
ディスコでも東欧出身のスタッフを採用しましたが、言語能力や資質は優れていても、ベルリンの壁が崩壊した直後、資本主義を知らない文化圏で育った人たちにとって、日本社会への順応の準備がまだ整っていなかった様に思えます。
また、受け入れ側も充分なトレーニングやフォローができず、優秀な人材を活かしきれなかったと思います。
国際化の第一歩は言語によるコミュニケーションなのですが、それだけでは日本の仕組みに溶け込めなかった当時ならではの時代的背景がありました。
ただ、「政変後の東欧経済復興を人材の面から支援する」と、社の哲学として掲げてベルリンでの開催を行った事は意義深いものだったと思います。
まだ東西融合で混乱を極めていたこの時期に、ベルリンでイベントを行ったのはディスコだけだったと記憶しています。
そしてこのベルリンのキャリアフォーラムをきっかけにディスコが採用した東欧のスタッフのうち、旧ユーゴスラビア出身者はイギリスで人材関連ビジネスを立ち上げ、ポーランド出身者は在ポーランドの日系大手メーカーの人事部長として活躍しています。
ディスコの東欧経済復興支援、小さな成果の様に見えますが、社会的には大きな一歩だったと思います。
ライバル出現から一人勝ちへ
ディスコのキャリアフォーラムの成功が評判になると、競合他社がアメリカやヨーロッパで留学生採用イベントを開くようになりました。
「ディスコのイベントは参加学生数は多いけど外人と女子ばかりで無駄が多い。」
そんな陰口を叩く他社は、日本人男子学生だけを集めてイベントを行うとか、日本人男子を選別して履歴書を渡すなど、採用企業に忖度した謳い文句で営業をしていました。
もちろん、それは明らかに法律に違反していました。
留学生の名簿管理をアメリカ国内で行っていたある会社は、内部告発によりアメリカ雇用均等法に違反した名簿の扱い(日本人男子学生だけへの告知)をしていると連邦政府に指摘され、処分されてしまいました。
またライバル社の中には、大学の留学生課、就職課での告知依頼の際にも「日本人男子」だけに告知してほしいと持ちかけ、大学関係者から厳しく非難を浴びたところもありましたました。
一時期、ライバル社の中傷で営業が苦労した事もありましたが、キャリアフォーラムは一貫して「アメリカの法令遵守。」
参画企業を啓蒙しながら趣旨に賛同してくれる企業を増やした一方、アメリカの大学・教育機関にもその姿勢が受け入れられる事によって現地の協力者も増え、参加学生数が年々増加していきました。
他社ほど大きな資本基盤を持たなかった無名の「キャリアフォーラム」が、今では日本人留学生、日本語履修生で知らない人はいないというほどに成長できたのは、
立ち上げ当初から今日に至るまで一貫してアメリカの法令・文化をしっかりリスペクトすることによって、アメリカの社会に育てて頂いたからだと思います。
ヌートバーに重なる当時の思い
私が日本のディスコ勤務していた時は、日本各地の支社にはじめて出張に行った時でさえ、仕事が終わったらサヨナラではなく、お食事、カラオケまで連れてって頂いて、各地の方と交流を深める機会がありました。
日本の会社って楽しいな・・・ すぐ仲間になって一体感があって・・・と感激しました。
初めて会う同僚なのに、その人情味に触れて何とも言えぬ安堵感に満たされていました。
WBCの侍ジャパン、ヌートバーがハシャギにハシャいで日本チームで喜び弾けていた気持ちがよく分かります。
アメリカではチーム(職場)仲間はいても、所詮職場だけの一時的な関係。チーム内でも常に緊張感はつきまとっていました。
ヌートバーも日本チーム参加には不安があったと思いますが、チーム全員がズブズブに暖かく迎えてくれて、人生初の浪花節的人間関係に触れて心底嬉しかったのだと思います。
私も本当に幸せだったな・・・と、重なりました。
残念ながら私は日本に戻って本社で3年ほど勤務した後、体調を崩した事をきっかけに、退職してアメリカに戻って大学院を終える事にしました。
飽きっぽいのか、一度企画が軌道に乗ると熱量が激減する性質なので、また新しいことを始めたくなって紆余曲折を経ながらボストンで留学事業を行う会社を設立するに至りました。
それでも毎年秋になると、キャリアフォーラムで出張してくるディスコのスタッフの皆さんに我儘を沢山言って、山盛りのお土産を頂戴しながら再会を楽しんでいました。
ほぼ社会人経験を持たない私が突然副社長に抜擢された後、意に反して日本での勤務になった訳ですから、文化的にも対人的にもかなりの葛藤がありましたし、とても多くの方にご迷惑をおかけしたと反省しています。
今振り返れば私自身が日本人にもアメリカ人にもなりきれず、自分の立ち位置がわからなくなってしまった未熟さの問題だったのだと思います。
ともあれ、こんな異色の私を暖かく受け入れていただき、素晴らしいスタッフのみなさんとお仲間になれてとても幸せな6年間でした。特に、この年になってその幸運がひしひし感じられるようになってきました。
・・・・・・・
その後、私が留学のお世話をした学生さんたちはキャリアフォーラムで素晴らしい職を得て、飛躍的に出世して世界で活躍しています。
インターネットの出現とともにキャリアフォーラムがどんどんと進化していき、アメリカの学生の中では知名度抜群のイベントに大成長。今では「#ボスキャリ」と呼ばれているそうですね。
今秋で36年目を迎えるボストンキャリアフォーラムは、その後のスタッフのみなさんの努力のお陰で、今なお進化し続けている事を大変喜ばしく思います。
世界中のキャリアフォーラムの総計でもう何人キャリアフォーラムに参加したのでしょう?20万人ぐらいになるでしょうか。
あのボストン大学の就職担当者の方のひとことから、数え切れない出会いがもたらされて、数多くの優秀な社会人が誕生していったこと、
そしてそんなイベントの始まりをお手伝いさせていただく機会を得て、多くの素晴らしいご縁に事恵まれましたことを、
言葉に言い尽くせぬほど感謝しています。
Career Forum Forever: 陰ながら応援させて頂いています。
ボストンキャリアフォーラム立ち上げ秘話(第一話 はじまりのはじまり)
ボストンキャリアフォーラム立ち上げ秘話(第二話 キャリアフォーラムの幕開け)