2024年マスターズプレビュー③~マスターズと日本のつながり~

3回シリーズでお届けする2024年マスターズプレビュー。最終回となる今回は、マスターズと日本のつながりについてご紹介します。

憧れと目標になったマスターズとオーガスタ・ナショナル

「マスターズ」と名の付くゴルフ場やゴルフトーナメント、オーガスタのそれを模したと思われるクラブハウス、「マスターズ並みの速さ」を謳うグリーン、果ては会社の応接室などに掛けられているマスターズの写真入りカレンダーまで…。

日本のゴルフシーンにおけるマスターズとオーガスタ・ナショナルGCの浸透ぶりは、他のメジャートーナメントと比べて突出しています。

そして、日本のゴルファーやゴルフ関係者にとって、マスターズやオーガスタ・ナショナルは、憧れと目標になりました。

そうなるまでに至ったマスターズならびにオーガスタ・ナショナルと日本のつながりについて、ここからは時代を追ってご紹介しましょう

戦前から1960年代 ~在籍した日本人メンバーと「リトルコーノ」の活躍~

初めて日本人選手が出場したのは、1936年の第3回大会。

戸田藤一郎と台湾から日本に帰化した陳清水の2名が出場し、予選を通過した陳は20位の成績を残しています。

早くからの出場に驚かれる方がいるかもしれませんが、実は前年の1935年にも宮本留吉ら3名に招待状が届いていました。

しかし招待状が届いたのは、その年の2月。渡米手段が船しかなかった当時では開幕に間に合わず、3名とも出場を断念しています。

草創期の日本との繋がりとしては、もう一つ忘れてはいけないものがあります。オーガスタ・ナショナルGCにいた日本人メンバーの存在です。

石田禮助氏(三井物産HPより)

そのメンバーの名は、石田禮助。旧三井物産に在籍していた石田は大連、シアトル、ボンベイ(現ムンバイ)などの支店長を歴任後、1930年に支店長としてニューヨークに赴任します。

支店長就任後は錫の取引で成功し、ウォール街の経済界でも名を知られるようになりました。

「その際、オーガスタ・ナショナルGCの創設者であるクリフォード・ロバーツと親交を持った石田は、クラブのメンバーになった」と、マスターズ公式サイトの記事にも記載されています。

その後、旧三井物産の取締役就任により、クラブを退会。一説にはロバーツから「後任となる日本人を紹介してほしい」との話もあったとされています。

しかし第二次世界大戦の突入により石田の後を継ぐ日本人メンバーはいないままとなり、日本人選手の招待も1958年まで途絶えることとなりました。

戦後、再び日本選手が招待を受けるようになってから1960年代までのマスターズで活躍した日本人選手としては、河野高明が挙げられます。

1969年、河野高明が4アンダー68というベストスコアを記録した際に授与された「ベストスコア クリスタルグラス」(藤沢ジャンボゴルフHPより)

1940年に横浜で生まれ、1959年にプロテストに合格した河野。

1967年の関東オープンで初優勝を飾って以降勝利を重ね、1970年には日本人初の1000万円プレーヤーとなります。

マスターズには1969年に初出場し、13位と健闘。大会中には4アンダー68という、大会ベストスコアも出しました(ちなみにこのスコアは、以後21年間にわたり日本人のベストスコアとなりました)。

更に翌年1970年には、12位という当時の東洋人最高位である成績でフィニッシュしています。

160cm、60kgという小柄な体格ながら外国人選手と堂々と渡りあったその姿に、パトロンたちから「リトルコーノ」との愛称が付けられました。

ベストスコア記録時に主催者から授与されたクリスタルグラスといった記念の品は、彼が生涯の練習拠点とした、神奈川県藤沢市にある「藤沢ジャンボゴルフ」で見ることができます。

1970年代から90年代~AONらの挑戦~

1970年代から90年代にかけてのマスターズで奮戦したのは、「AON」と呼ばれた青木功、尾崎将司、中嶋常幸の3選手です。

それぞれのマスターズ出場回数は、尾崎が19回、青木が14回、中嶋が11回を数え、日本人選手の出場回数の多さでは1位、2位、4位にランクします(3位は松山英樹の12回)。

中でも中嶋は、1986年には3日目を終えて2打差6位という優勝争いに絡む活躍の末、8位タイに。

また91年にも、河野高明が持っていた日本人ベストスコアを更新する67でのラウンドもあって、10位タイに食い込みます。

尾崎も出場2回目となる1973年には、当時の東洋人最高成績となる8位タイに入りました。

AON以外の日本人選手では、1982年に出場しレフティー(左打ち)として歴代最高成績となる15位タイに入った羽川豊の活躍が挙げられます。

2000年代~ついに初制覇~

2000年代に入ると、AONと入れ替わるように出場し始めた若手選手が、活躍を見せます。

2001年には大会初出場の伊澤利光が、2日目に66、最終日に67とそれぞれのベストスコアを出して、日本選手歴代最高の4位タイに入る快挙を達成。

かのアーノルド・パーマーから「キング・オブ・スウィング」と称賛された実力を、経験が必要とされるマスターズの舞台で存分に発揮しました。

それから8年後の2009年は、3日目を終えて5打差の6位に付けていた片山晋呉が、最終日に「68」をマーク。

三つどもえのプレーオフに2打及ばなかったものの、単独4位に入りました。

こうして少しずつ、しかし確実に近づいていったグリーンジャケット。

そして2021年、遂に松山英樹がマスターズを制覇。日本人選手全員の憧れであったグリーンジャケットへ袖を通します。

初めて日本人選手がマスターズに招かれてから85年、33人の日本人選手が挑戦した末の快挙でした。

マスターズ中継の移り変わり

マスターズと日本の繋がりにおいて欠かせないものに、テレビ中継があります。

今回の記事の締めくくりとして、そのテレビ中継の移り変わりについてご紹介しましょう。

日本におけるマスターズ中継が始まったのは、1967年のこと。その開始当初から今日に至るまで、TBSが担ってきました。

それ以前からTBSでは、アメリカ3大テレビネットワークの一つであるCBSが主催していた人気ゴルフトーナメント「CBSゴルフクラシック」を放映。

「ならば、同じCBSが中継を担当しているマスターズもやろう」となったのが事の始まりです。

中継開始から1975年までは、CBSが撮影したVTRを日本で送ってもらい、それに解説をつけて1週間遅れで放映するという形をとっていました。

1976年からは衛星生中継がスタートします。ただし、当初は決勝ラウンドの二日間のみ。

しかも、CBSが行う生放送を見ながら、ニューヨークにあるスタジオで日本語の解説と実況を付けて日本へ電波で送るという、変則的なスタイルでした。

長年マスターズの解説を務めた故岩田禎夫氏が記したところによれば、当時の陣容は解説者の岩田氏に実況アナウンサー、ディレクター2名、ニューヨークの駐在員2名、編成部員とコーディネーターが各1名だったそうです。

予選ラウンドも含めた四日間フルの衛星生中継が始まるのは、1983年のこと。

それ以降、最盛期には現地オーガスタ・ナショナルGCに専用スタジオを設け、解説者や実況アナウンサーを始め総勢50名以上のスタッフで番組を制作していました。

しかし、2019年12月から始まった新型コロナウィルスの流行は、マスターズ中継体制にも影響を及ぼします。

2020年のマスターズが日本国内のスポーツ中継も多い11月に延期されたことに加え、主催者側からも「中継スタッフの人数をできる限り減らしてほしい」との依頼を受けたのです。

そのため、まず中継のベースを現地オーガスタから東京の放送センターに移行。アメリカから送られてくる映像へ、東京のスタジオでコメントをつけるというスタイルに変更します。

そして現地スタッフについても、日本から渡米したのは技術スタッフの2名のみ。全体でも20名弱という、従来の三分の一の陣容で中継に当たることとなったのです。

なお今年2024年は、現地からのラウンド解説とリポートも織り交ぜた放送となる予定となっています。

今回まで3回シリーズでお伝えした2024年マスターズプレビュー、いかがでしたでしょうか。

第1回のマスターズが開催されてからちょうど90年目の今年は、どのようなドラマが繰り広げられるのか。

私自身ワクワクしながら、その行方を見守りたいと思います。

Who is writing

1982年生まれ。大手建機レンタル会社や書店チェーン、金属材料販売会社に勤務する傍ら、小学生のころにテレビで見たイギリスにあるリンクスコースの光景に衝撃を受けて以来、ゴルフコースに関する情報収集を趣味としている。ゴルフコースに関する蔵書は、洋書も含めて数十冊。