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今回のコラムでは、全米オープンにおけるコース改修の歴史についてご紹介します。
全米オープンの難コースには「オープン・ドクター」の力あり
今年も間もなく、ゴルフの全米オープンが開幕します。
今年の開催コースは、ロサンゼルス・カントリークラブ(LACC)のノースコース。
街の中心部であるビバリーヒルズに位置する1921年完成の超名門コースで、初めて全米オープンが開催されます。
全米オープンと聞くと、「難コース・難セッティング」というイメージを持たれる方も多いのではないでしょうか。
「優勝スコアがイーブンパーとなるようなコース作りがされている」ともいわれるコースセッティングですが、その陰には全米オープン仕様にコースの改修設計を行った設計家たちの尽力があります。
そんな彼らは、別名「オープン・ドクター」とも呼ばれます。
今回はオープン・ドクターの変遷を通じて、全米オープン開催コースの歴史についてご紹介していきます。
オープン・ドクターの祖~ロバート・トレント・ジョーンズ・シニア~
そもそもオープン・ドクターという呼び名を生み出すきっかけになったのは、ロバート・トレント・ジョーンズ・シニアが行ったコース改修でした。
1906年にイングランドで生まれたロバートは、1912年に母や兄弟と共に父が待つアメリカに渡りました。
その後、カントリー・クラブ・オブ・ロチェスターでキャディをしていた彼はある日、当時そのクラブ所属のクラブプロであり「キング・オブ・プロ」とも称されたウォルター・ヘーゲンを目撃します。
愛車を運転してクラブに現れた際の堂々たる姿に、彼はゴルフの道で生きていく事を決めたと言います。
最初は選手としての大成を目指し、16歳の時にはトーナメントでローアマチュアにも輝きました。
しかしその後、十二指腸潰瘍で長期入院してしまい、トッププレイヤーへの道は断念。
退院後、高校を中退して父の営む会社で製図工として働いていましたが、ゴルフに携わりたいという思いは捨てきれないままでした。
そんなロバートに1925年の夏、幸運が舞い込みます。
ゴルフインストラクターをしていた彼は、オンタリオ湖のソダス湾近くに完成したソダスベイハイツ・ゴルフクラブの開場記念エキシビションマッチでプレー。
さらにはクラブ側から、「グリーンキーパー兼クラブプロ兼マネージャー」という、願ってもみない総合職のオファーを受けたのです。
更に幸運は続きます。クラブのメンバーの一人が、ロバートをコーネル大学の農学部学部長に紹介。
学部長は、ロバートが特別学生として講義を受けられるよう取り計らいました。1928年の秋の事です。
こうしてロバートは、コース設計家への足場を固めていきました。
そしていよいよコース設計家としての活動を開始したロバートでしたが、当初パートナーとした先輩設計家との関係がなかなか上手くいきませんでした。
その上、時代も大恐慌から第二次世界大戦へと動いていった事により、長く不遇の時代を過ごすことになります。
第二次世界大戦後、再びロバートの元にチャンスが舞い込みます。
かねてから彼の設計に関心を持っていたロバートと同じイニシャルRTJの名を持つ人物から、自身の設計したコースの改造を依頼されたのです。
その依頼主こそ「球聖」ボビー・ジョーンズ(本名:ロバート・タイアー・ジョーンズ・ジュニア)であり、改造を依頼されたのはオーガスタナショナル・ゴルフクラブでした。
ロバートは11番ホールのグリーン左への池の造成、16番ホールの池越えのホールへの変更といった今にも残る大幅な改造を行います。
これらの改造は、ボビーから高い評価を得るとともに、ロバートの設計家としての評価も高めることになりました。
そんな中で依頼されたのが、1951年の全米オープン開催を控えたオークランド・ヒルズCC(サウスコース)の改修です。
オークランド・ヒルズCC(サウスコース)は1917年に名匠ドナルド・ロスが設計したコースでしたが、ゴルフの進化に対して対応できていない面がありました。
ロバートはこれに対応すべく、「ターゲット・ゴルフ」の概念に基づいて改造を行いました。
具体的には、コースの延長やバンカーの新設、フェアウェイの絞り込みなどを行い、ターゲットを狙ってショットを打つ技量を求めたのです。
そして迎えた、全米オープン本番。一日でもアンダーパーで回ったのは、優勝したベン・ホーガン他1名。ホーガンの優勝スコアは+7でした。
最終日にアンダーパーで回ったホーガンは優勝時、「このモンスターをねじ伏せたことに満足している」とのコメントを残し、それ以来コースは「モンスター」の名で知られることになりました。
またロバートもこの改造が高い評価を得たことによって、その後バルタスロル、サザンヒルズ、オリンピックC、コングレッショナルなどで全米オープンに向けた改造を手掛けるようになり、いつしか「オープン・ドクター」と呼ばれるようになったのです。
ドクター親子鷹~リース・ジョーンズ~
ロバートの次にオープン・ドクターと呼ばれるようになったのは、ロバートの次男であるリース・ジョーンズです。
1941年に生まれたリースは、1963年にイエール大学を卒業。
その後、ハーバード大学の造園コースで1年間学び、さらにカリフォルニア大学バークレー校の造園学プログラムでも勉学したのち、父の東海岸事務所の運営を引き継ぎました。
ちなみに西海岸の事務所を任されたのが、リースの兄でありロバートの長男である、ロバート・トレント・ジョーンズ・ジュニアです。
ロバートJrがアメリカの西側や海外のコース設計を担った一方、リースはアメリカ東側のプロジェクトに専念。
先輩社員らからも実践的な設計の指導を受けながら、10年間で20以上のプロジェクトに携わります。そして、1974年に父であるロバートの事務所を辞め、自らの設計事務所と立ち上げました。
独立後もリースは海外のコース設計をほとんど行わず、ほぼアメリカ国内のコース設計のみを行っていました。
そんな中で1985年にリースが手掛けたのが、その3年後に全米オープンの開催を控えたボストン近郊にあるザ・カントリークラブのコース改修です。
アメリカで最も古いカントリークラブであり、かつ全米ゴルフ協会の設立にも関わった歴史あるザ・カントリークラブのコースを改修するにあたり、リースはグリーンの大きさや形を、1890年代にコースが作られた当時のオリジナルのものに戻しました。
その上で、バンカーをフェアウェイの奥に配置したり、チャンピオンティーを多数追加したりするなどして飛距離の伸びに対応したのです。
この改修が評価されたリースは、以後パインハーストNo.2コース、ベスページ・ブラックコースの他、かつて父のロバートが改修を行ったオークランド・ヒルズやバルタスロル、ヘイゼルティン・ナショナル、コングレッショナルの再改修も行います。
こうして、父ロバートの後を継ぐ「オープン・ドクター」へとなっていったのです。
近年のドクター~ギル・ハンスら~
リース・ジョーンズがザ・カントリークラブで行ったクラシックコースのレストア(復元改修)は、人工的な景観ではなく自然に溶け込んだコースを良しとするゴルファーの増加や世界的なゴルフ場ランキングにおける評価傾向によって、今や世界的なトレンドとなっています。
全米オープンの開催コース改修においても、近年はそのトレンドを踏まえつつも、飛躍的な道具の進化に対応しうる改修が行われるようになってきました。
その改修設計を手掛けている設計家の筆頭に挙げられるのが、ギル・ハンスです。
1963年生まれのギルは、1989年にコーネル大学で造園学の修士号を取得後、モダンクラシックコースを手本としたコース設計で知られるトム・ドークの元で働き、経験を積みます。
1993年に独立後、モダンクラシック時代の有名設計家であるセス・レイナーやA・W・ティリングハストらが設計したコースのレストレーションで、ギルは早々に一流の復元改修設計家としての地位を確立しました。
それ以来、リオデジャネイロ五輪用のゴルフコース設計など多くの新設コースプロジェクトと並行して、全米オープン開催コースの改修設計も担当。
これまでにウィングド・フット、サザンヒルズ、メリオン、オークモント、オリンピックCなどを手掛けました。
そして今年の開催コースであるLACC(ノースコース)の改修を担当したのが、誰あろうギルその人なのです。
またギル・ハンス以外の設計家では、マスターズ2勝の名手ベン・クレンショーがビル・クーアと共同で、パインハーストNo.2コースの再改修を行いました。
今後も新たにレストアされたクラシックコースが、全米オープンの開催コースに名を連ねるかもしれません。
今年の日米のナショナルオープンは新旧ドクターの競演
今回は、全米オープンのコース改修を担った「オープン・ドクター」についてご紹介してきました。
ちなみに今年日本オープンが開催される茨木CC・西コースは、2011年にリース・ジョーンズが日本のコースでは初めてとなるコース改修を行いました。
グリーンのワングリーン化やバンカーの見直しを主とする改修によって、一部では「世界基準のコースになった」との声もあるようです。
ギル・ハンスが改修したLACCと、リース・ジョーンズが改修した茨木CC・西。
今年はくしくも、新旧のオープン・ドクターが改修したコースで日米のナショナルオープンが開催されるわけです。
ぜひこの機会に皆さんも、選手たちのプレーのみならずオープン・ドクターが手を施したコースに目を向けられてはいかがでしょうか。