大学教員の仕事と人生:その優先順位と意思決定(その3)

はじめてのオファーが届き、身の振り方を考えることになった私が、どのような意思決定をして、その後、どのような大学教員人生を送ってきたのかを振り返ります。

迷いと決断

正直、どうすべきか迷いました。

昔から興味のあった大学教育研究のメッカである研究センターから、しかも新設講座を任せたいというオファーであり、所属学生がいない、基本的に研究活動に特化したポスト(のちに大学院教育には関わることになるポストでしたが)でした。

特段の制約もなく、やりたい研究(理科教育学も含めて)をやれるポストであったわけです。

ただ、ファミリーライフの面でいえば、新居を購入し、子どもたちの受験が近づくなかでの単身赴任となることは必至でした。

しかも、自宅は関東で、勤務地は中国地方ということで、なかなか簡単には行き来できないことが予想できたわけです。

まだ、テレビ電話などは普及していなかった時代です。

ひとつだけメリットがありました。

勤務地に近い自分の郷里で一人暮らしをしている、認知症の症状が出始めてきた老母の様子を見に行ける機会が増えるという点です。

挑戦してみたいという思いが勝って、家族の了解を得て、研究センターへの異動をすることを決めました。

初めての任地で20年も快適に過ごさせてもらったので、後ろめたい気持ちもあったのですが、所属講座から1年間の併任(これまでの担当授業を担当する)を求められたのに応えることで、踏ん切りをつけました。

新しい研究領域への挑戦と予期せぬ事態

新たに取り組むことになった高等教育学という研究分野は、自分にとっては、理科教育学の時と全く同じで、自分はアウトサイダーであることは最初から自覚していましたし、アウトサイダーの学界での生き方はそれなりに心得ていると思いつつ、新任地に移ったのです。 

もちろん、「科学社会学」的な分析は、着任する前にしっかりとやっておきました。

朝から晩まで、誰に制約を受けることなく、好きな研究に没頭できますし、日本で唯一の高等教育研究機関なので必要な文献類がほぼすべて手に入る状況は、まさに天国でした。

入学試験の煩わしい試験監督業務などもなく、大学管理業務もなく、年間を通して、研究三昧の日々を送れたからです。

この研究センターは国立大学の附属機関ではありますが、先述のように、日本の高等教育研究の中心といえる組織でした。

それは、そのセンターに所属したことのあるOBが現役の教員とともに「コリーグ(colleagues)」というゆるい組織で連帯していたことによる部分も大きいと思います。

それが可能であったのは、一つには、日本国内の高等教育に関する研究リソースがこの研究センターに集約されていたことと、もう一つ、所属する教員の勤務年数が平均すると5年程度で、他機関へすみやかに異動していくことで組織の新陳代謝がスムーズだという伝統があった(つまり、OB研究者がどんどん増える)ことでした。

しかし、2年目の秋に思わぬ事態が起こりました。

10年近く共同研究などで世話になってきた研究仲間(といっても、だいぶ年長なのですが)が、関西圏の国立大学で学部長を務めていたところ、学長に選出されてしまい、教授職を離脱しなくてはならなくなってしまったのです。

そのため、実施中の研究プロジェクトや大学院生の指導などを引き継ぐために、その大学に翌年春に異動してくれないかという話が出てきたのです。

赴任してきてまだ1年半で、しかも新設の講座を任されて、実質的にまだ何も成果をあげられていない状況で、です。

たしかに、この研究センターの教員の新陳代謝はスムーズではあるのですが、さすがに2年での異動は若手を除いて先例がありませんでした。

ただ、当時は社会貢献活動に関して、学会活動や文部科学省の委員会の仕事などが増えてきていて、頻繁に東京出張がありました。

さらに、研究活動に関して、国際会議での招聘講演や国際共同研究等での海外出張も頻度が増えてきていました。

車の免許を持たない私にとって、勤務地は公共交通の便があまりよろしくなく、東京や国際空港へのアクセスの面で不便さは感じてはいました。

オファーのあった関西圏の大学は、交通の便がよく、東京も海外出張も非常に便利で、ファミリーライフとしては、週末に東京で会議があれば、会議後に自宅に戻り、月曜の早朝に自宅を出れば、勤務開始時間には大学に到着できることがわかりました。

田舎の母親のことは心配だったのですが、交通の便がよいので、日帰りで様子見に帰るのは容易だと判断しました。

結局、意を決して、研究センター長に、オファーがあったこと、熟慮の末に、異動を選択したいことを申し出ました。

予想通り、センター内で、反対(2年という短さが問題視された)意見が多く、異動への承認はなかなか得られませんでした。

制度上は、辞職すれば済む話なのですが、「大学村」はそう簡単ではありません。

後々も、この研究者コミュニティで生きていくには、穏便に事態を収拾することが求められるわけです。

結局、オファーを出した大学の次期学長が研究センター長に直談判して、ようやく異動が認められることになったのです。

(異動後も、コリーグとしての関係性は続いていったのですが。)

戦術が裏目に出て

新任地での当面のミッションは、先任者(学長)がやり残した研究プロジェクトの完遂と指導途上であった学生や院生への助言・指導、それに学部・大学院の授業科目群を担当することでしたので、教育活動がメインになるはずでした。

正直なところ、新学長が任期の4年を終える時には、できればこの大学を辞して、単身赴任に終止符を打ち、自宅から通える関東の大学にポストを見つけようと思っていました。

しかし、事態はそうなりませんでした。

教育活動がミッションだと思っていたのですが、1年目の年度末には、学内の研究センターのセンター長にされてしまったのです。

できるだけ避けたいと思っていた、大学管理活動が始まったのです。

4年目には、大学の執行機関の委員に選挙で選ばれてしまいました。

大学の学内人事には、「選挙」という恐ろしいしくみが生きています。

立候補制ではなく、やらせたい教員の名前を書いて投票するというしくみです。

そして、選ばれて「しまったら」、本人の意思に関係なく、やるしかないというしくみです。

しかも、学長は再任され、当初の予定(目論見)は狂ってきたのです。

そういえば、当時、会議に向かおうと廊下を歩いているときに、ゼミ生や近隣のゼミ生に、よく声をかけられました。

「先生、これから会議ですね。悲惨な顔していますからね。」と。

大学管理業務に対する自分の気持ちが顔に出ていたのだと、ハッとしたものです。

会議が終わって研究室に戻ると、彼らは、「先生、うれしそうな顔になっています。」と笑っていたのも思い出しました。

今思えば、まずかった点もあります。

それは、研究活動の時間や学会活動など社会貢献活動をできるだけ多く確保するためには、教育活動に必要な時間量が減らせないとすれば、大学管理活動やその業務の時間量を極力減らすしかないと判断し、そういう戦術をとったことでした。

管理職でなくても、こまごまとした委員会活動が大学内では行われるのですが、そこで生じる面倒な問題や課題に直面した場合、できるだけ短期間で解決策、提案書等を委員長や上司に提出して、それらとかかわる時間量を減らしていました。

それがまずかったのです。

「あいつに頼めばなんとかしてくれる」といった風評が組織内に流れ、これが、「管理業務へ適任だ」という間違ったメッセージになったようなのです。

大学のような組織では、内部では、「動かないこと、目立たないこと、波風をたてないこと」が結果的には、研究活動や社会貢献活動の時間を確保する「生きる力」だったのかもしれないと今になって思うのです。

この事態は、自分自身の危機感に変わりました。

このままこの組織にいれば、近々に、管理職(学部長や研究科長)に選任されそうだと。

管理職になれば、自分自身で自分の転職願を出すわけには道義的にいかないわけです。

そうなるまえに、できるだけ早く、関東の大学に職を見つけたいと思うようになっていきました。

そんな折、関東の私立大学で、理数教育の大学院の設置をめざすところから、設置計画に関するアイディアや組織、教育課程、文科省交渉等に関するアドバイスがほしいという依頼がありました。

これまでいくつか大学院の設置計画書の策定等にかかわってきた経験があったからです。

結果的に、この計画の進捗とともに、その大学院の設置時に、創設メンバーとして招聘してもらうことになりました。

当時は、大学で教員の異動がある場合、古い伝統があって、異動先の大学から異動元の大学に、「割愛」という依頼文書が交付されます。

異動の半年ほど前です。

これが届いた時点で、異動が公になり、紳士協定的に、教授会で異動が承認されていたのです。

ここでも戦略的に動きました。

先方の大学に依頼して、「割愛」文書を、着任する半年前ではなく、1年前の4月に交付してもらったのです。

じつは、5月には、新しい学部長の選任(選挙)が予定されていたからです。

その前年の冬以降、学部内で多くの教員が私を学部長にしようと画策しているといううわさが耳に入ってきていました。

したがって、被選挙権名簿が確定する前に、異動を確定しておかないと、まずいことになると思ったのです。

おかげで、被選挙権名簿に名前が掲載されることなく、翌年の異動を無事に迎えることができたわけです。

研究活動と社会貢献活動に集中して

こうして、関東の私立大学に異動することができ、単身赴任を解消し、自宅からの通勤ができるようになりました。

こんどのポストは、大学院だけの組織なので、教育活動は、大学院生向けの授業と研究指導だけだと思っていたのですが、私学特有のしくみで、教員の最低授業時数が決められていました。

大学院の授業だけでは、その時数に届かないので、学部の一般教育科目をやることになったのです。

ただし、決められた科目ではなく、自分で新しい科目を作ってよいということで、その大学が理工系の大学だったことから、「理工系キャリア開発論」と「理工系スキル開発論」という科目を、学部2、3年生用に開講しました。

彼らは、キャリアについてもスキルについてもあまり問題意識を持っていませんでしたので。

授業方法は、いつも通り、講義によらない演習形式を採用しました。

受講生は少ないので、これはこれで、粛々と進められました。

勤務先とは別のキャンパスでの授業でしたから、移動に若干の時間をとることになりましたが、私立大学で生きていくためにはしかたないことだと割り切りました。

大学院担当なので、卒論学生はいないし、私の専門は、理工系そのものの研究内容ではないので、大学院生も少なく、研究活動や学術関係や学会関係の社会貢献活動に集中することができました。

新しい研究テーマにもいくつか挑戦できましたし、学術関係では、何人かの外国人研究者を日本に招聘して彼らの研究活動を支援できました。

10年の準備を経て設立した東アジアの国際学会の日本初の国際会議を、研究仲間の協力を得て、主宰することもできました。

むろん、逃げ切れずに、大学管理業務として管理職を4年間務めることにはなったのですが、定年までの10年間は、総じて、とても平穏で、精神的にもリッチな日々でした。

ファミリーライフの面でも、幼い孫たちの成長を身近でみまもる幸せな時間も確保できましたし、幸い、健康面でも、大きな問題もなく過ごせた時期でした。

おわりに

定年を迎える数年前から、定年後の生活をどうするか、考えてきました。

一番避けたかったのは、学会関係者や若手研究者に「老害」を及ぼすことでした。

定年退職後も、学会の理事会に顧問として出席して意見を述べたり、年次大会などに顔を出し、若手研究者の研究にコメントをするといった活動をすると、そのコメントが往々にして、最新の研究動向をフォローできていない古い考えだったりするのですが、そのことに気づかないし、若手研究者も恐れ多くて反論もできない。

そんな状況は絶対に避けたいと思っていました。

そのため、定年を機に、学会活動から完全に撤退することを決めました。

海外も含めて、すべての学会の会員を辞しました。(一つだけ国内の学会で、名誉会員を辞めさせてもらえずにいるのですが。)

また、海外の学術誌の編集委員、学術論文の査読委員や海外の大学からの博士論文審査、教員昇格審査などの依頼も、すべて断わりました。

コロナ禍ということもあって、時間だけはたっぷりありましたから、大学院生の頃に収集していたクラッシック音楽のレコードを聴いたり、日々のウォーキングで四季の移り変わりを楽しんだり、のんびりした生活を2年ほど送っていました。

落ち着いてみると、暇つぶしに、専門以外の分野も含めて、いろいろな分野の海外文献を読むのを楽しんでいる自分を発見しました。

昔から、別の分野の新理論(自分が知らない理論)や研究枠組を探しては、それを自分の研究分野に当てはめてみるとそれまでとは違う見方で世界が見えてくる、そう考えるのが好きでした。

その癖が残っているのを自覚しました。

そのうち、この活動は、社会のために役立てることができるのではないかと思い始めました。

たとえば、海外の研究文献を収集して分析し、内容をわかりやすく取りまとめることを仕事にできるかもと、お世話になってきたシンクタンクの研究員の方に相談してみたら、そういう下請け作業のニーズはたくさんあるよということで、無理のない範囲で、楽しみながらやってみることにしたのです。

そんな中で、縁があって、いまの仕事に出会うことになり、この原稿を書いている、今日この頃なのです。

最後まで読んでいただいた方々、ありがとうございました。

みなさまが、人生の節目節目で、ご自身の中での優先順位と意思決定を意識的・主体的に考えて、戦略的に、前向きに、幸せな方向に進まれますことをこころから応援いたします。

なにしろ、たった1回の貴重な人生ですから。

(終わり)

Who is writing

神戸大学名誉教授・東京理科大学名誉教授/株式会社経営人事パートナーズ 海外文献リサーチャー

研究者としてのキャリアは、 教育学としての科学教育学から。

その後近代科学の異文化性を中核に据え、 異文化としての科学と人間の関係性を、 教育という切り口から研究してきた。

約40年、 合計4つの大学で教員を務め、定年退職を機に、 教育活動、研究活動の中で最も好きで、最も専門的スキルをみがいてきた、 海外文献の調査 探索 検索収集・分析・要約の活動をフリーランスとして行っている。

未知の研究領域 (人文社会科学系) について学ぶことは、 自分の知的好奇心を満たせることなのだが、 現代社会の中で、このような活動と成果を求めているセクターがあることがしだいに明らかになってきて、 その顕在的・潜在的なニースにささやかながら応えられることが楽しいしうれしい。

教育学、歴史学 、 人類学、 民族学、 民俗学、 社会学、 人材開発、 言語学、 コミュニケーション、 などなど、 知らない分野の研究を覗いてきたが、今回は、HRM や人事採用に関する海外文献の調査研究ということで、 また新しい世界を覗ける機会を得てわくわくしている。

HRM や人事採用については、アウトサイダーであるが、 であるがゆえに、インサイダーの方々とはちょっと違った見方も示せればよいかなと思ったりしている。

チャレンジできる仕事に出会えて感謝。