大学教員になっていく過程から最初の異動までの期間について、大学教員の4つの業務とどのように格闘してきたかを振り返ります。
もちろん、「優先順位」と「意思決定」に焦点をあてて話は進みます。
なんとしても就職しないと
今振り返ってみれば、私自身は、昔から戦略的だったように思います。
そのため、周囲から見れば、なぜ、とか、おやっ、と思われるような、独断的で奇異なキャリア選択や意思決定をしているように見えたかもしれません。
しかし、自覚としては、自身の優先順位を熟考しての決定だったと思っています。
クリティカルな時には、「1回しかない人生、これでいいのか?これがベストの生き方か?」と自分自身に問いかけてきました。
中国地方の片田舎で高校まで過ごし、関西圏の大学と大学院で10年を過ごした後、28歳で運よく(本当に運よく)、公募で、関東地方の地方国立大学の教員養成学部の助手(任期なし)に採用されました。
このとき、それまで大学院で専門としてきた植物生理学ではなく、教員養成学部に特有の理科教育学というポストでしたが、この選択を迷わず行ったのは、任期のつかない(常勤の)ポストにとにかく就職することが優先順位の1位だったことによります。
理由は、まちがいなくファミリーライフです。
結婚して子どもがいたこと。
博士号取得後も植物生理学の分野で研究を継続して、大学のポストに就職できる可能性は極めて低いこと。(身の回りの多くの研究室での就職状況から判断)
就職できないと塾講師や非常勤講師で生活するしかなく、大学・大学院と貸与されてきた膨大な奨学金の返済が困難になること。(当時は、大学に就職できて、一定期間勤務すれば、返済不要となる制度だったこと)
などが心にあったと思います。
また、関東地方に土地勘は全くないにもかかわらず、赴任を決めたのは、いずれ住み慣れた関西の大学にポストを見つけて、戻れるだろうと思っていたことによります。
ぼんやりとですが、この先の目標を立てていたことになります。
「見えない大学」を可視化する
新しい研究領域に就職したので、大学側は助手としての最初の数年は、教育活動と大学管理活動への参画を免除する措置をとってくれました。
ありがたいことでした。
新しい研究分野の研究(もとの植物生理学の研究に戻らないで)に専念し、理科教育学という領域の研究者としての足場を築けということだったと思います。
おかげで、じっくりと研究の戦略を練る時間がありました。
最初の1年間は、この研究領域での研究がどのようなテーマ、どのような研究手法を誰が使っていて、研究者間の人間関係がどうなっているのか、この学界が全体としてどのように機能しているかを徹底して調べあげることに費やしました。
のちになって気づいたことですが、これは「科学社会学」と呼ばれる研究分野で、「見えない大学」の存在を解明するための研究手法でした。
公刊されている大学便覧や研究者総覧、公的研究資金である科学研究費補助金による研究課題と研究チームの構成などを使いました。
まだ、ネット検索といった便利なツールがなかった時代です。
次に、これまで公刊されて蓄積されてきた研究論文や学会発表等の全容を解読しました。
教員養成系では、査読制度をとる学術雑誌以外に、各大学が研究や実践活動を報告する「紀要」というしくみがあって、各大学の学部がそれらを公刊してきているので、これらも調査しました。
研究テーマの変遷、科学研究費の補助金による研究成果の変遷などもわかってきました。
その結果、当時理科教育学という研究分野では、筑波大学(旧東京教育大学)と広島大学という旧制高等師範学校の流れをくむ二つの学派が学界全体を席巻しており、日本中の多くの関連ポストを上から下までほぼ二分して独占しているような状況だとわかりました。
自分のようなアウトサイダーが、この研究領域で生きていくには研究上の戦略が必要だと自覚したのを覚えています。
さらに、それらの研究がドメスティック志向(国内志向)で、海外の学術誌への公刊はほぼゼロに近いこと、教育現場での実践の分析や教育現場の実践に資する海外動向の翻訳紹介、海外の教育制度や新しい教育法の紹介と国内での導入事例の紹介など、ほとんどの研究テーマが出尽くしていることもわかりました。
結論として理解したのは、全くのアウトサイダーである自分がこの研究領域の内部で何か貢献ができる可能性は皆無だということでした。
これを最初の1年で理解できたことは、研究戦略あるいはこの分野で生きていくための生存戦略を立てるうえでとても重要だったと思います。
アウトサイダーとしての研究戦略
方向性は明らかでした。
アウトサイダーはアウトサイダーに徹し、決してインサイダーと争わず、インサイダーの土俵の外や周辺に別の土俵(未開拓の荒野)をみつけ、そこに新しい研究領域を見出し生み出すことをめざすしかなかったのです。
幸いなことに、その当時所属していた学部では、大学院の修士課程を設置しようという取り組みがあって、当時の執行部や上司から海外の大学院の修士課程の教育課程の状況や、対応する学校教育現場の状況に関する調査を依頼されていました。
一般的には、米国や英国を中心に調査すればよいのですが、なぜか私、東アジア、東南アジア、アフリカ、カナダ、米国など、あまり先進国を意識せずに情報を収集して分析していました。
当時はまだインターネットやSNSの普及していない時期で、海外の学術誌の編集委員や論文著者を手がかりに、IBMのタイプライターで関連資料の寄贈を求める手紙を書いて航空便で郵送し、1か月以上経過してから少しずつ届いてきた寄贈された資料(大学院の要覧や教育課程表、教科書リスト、入試情報など)を受領して、分析することになりました。
特に、東アジア(台湾、韓国)、東南アジア(フィリピン、タイ)、豪(パプアニューギニア)、アフリカ(ナイジェリア)などに興味があったのですが、残念ながらそれらの国のすべてで米国や英国の大学院のしくみを完全にコピーしたものだったのを記憶しています。
興味深かったのは、学校教育での理科(海外では科学)という教科の構成や内容も米国や英国のそれとほぼ一緒であったことです。
この時の「なんでみんな同じ?」が新しい研究の出発点になりました。
「自然環境、社会環境、文化環境の異なる社会であるにもかかわらず、教育制度と教育内容、教育方法が、西欧社会とほとんど同じとは、なんで?」という素朴な疑問でした。
裏を返せば、「非西欧社会では、人々と科学との向き合い方は、西欧社会とは異なっているはず」という思いがあったということになります。
その意味では、日本は非西欧社会でありながら、科学や科学技術とうまく折り合いをつけている貴重な事例という位置にいると思えました。
こうして、理科教育に関する根源的な問いかけ、「理科とは何?」「理科の本質は何?」「世界中、どこでも同じ理科を学んでいていいの?」「理科を学んで何になる?」といった理科教育の原理に関する問いかけが、じつはインサイダーが自明のこととして問うてこなかった本質的な問いであり、これを追求することは現状ではアウトサイダーにしかできないが、本質的な問いであるがゆえに、将来はこちらがインサイダーのコアになりうると考えるようになったのです。
ここで戦術を立てました。
まずは、日本の「理科」の本質を解明することです。
そして、研究成果は基本的に海外の学術誌に発表すること。
それを通して、海外の同志(特に、非西欧社会の同志)を惹きつけて共同戦線を確立すること。
その成果は、やがて「海外」から「国内」に流入することになる。これでした。
詳述は避けますが、簡単に言えば西欧社会の理科(科学という教科)では、西欧科学に基づく科学的自然理解のみを取り扱っているのですが、日本の小学校理科は西欧近代起源の科学的自然理解とともに、「自然を愛する」に象徴される日本的な自然理解が違和感なく同居している、世界的にみて極めて特殊な科学教育の形態をもっていることを海外に紹介しました。
しかもその形態は、明治中期に日本の小学校制度ができて以来現在までずっと継続していて、多くの国民から違和感なく受け入れられていること、それでも近年の科学技術の成功や児童生徒の国際学力調査での好成績につながっているという点が、非西欧社会の科学教育のモデルになるというアイディアを発表したのです。
この戦略が実を結ぶのは、この問題で最初の論文(英国の学術誌に掲載)を1986年に発表してから10年後でした。
この課題で国際研究集会が世界各地で開催されるようになり、20年後にはこの課題に関する国際学術誌が刊行されることになっていきました。
そして、国際的にはこの研究分野が科学教育という研究領域の一つの分科、Cultural Studies of Science Educationとしての地位を確立できたのです。
もちろん、まだ、アウトサイダーのままではありますが、国際的には、非西欧社会(アフリカ、中南米、太平洋諸島、東南アジア等)だけでなく、西欧諸国(米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、北欧等)の先住民社会や移民社会、マイノリティ社会の科学教育のありようを考える上での一つの規範となってきています。
残念ながら、日本ではまだ未発達であるのですが。
「教える-学ぶ」を超える教育形態を模索して
このような初期の研究活動における葛藤と合わせて、もう一つの葛藤の中から「生きる力(生き抜く力)」を身に着けていくことになりました。
それは、免除されてきた「教育活動」への参画が始まる時期に起こりました。
私は、「教える-学ぶ」という関係性が、全く嫌いでした。
いつからそうなったのか?
この原稿を書くことになってからいろいろと思い起こしてみると、小学生のころから、どうやら、「教えてもらった」ことをそのまま鵜吞みにすることもなかったし、知りたいことは自分で調べて学んだ記憶のほうが多いのです。
特段、生意気だったのではありません。
学ぶとはそういうことだと思っていたのです。
ただ、「教える」立場の人や書籍などは、考えるきっかけを与えてはくれたと思うのですが。
むしろ、学生が何かに興味を持って自ら「学ぶ」のを支援するのが、教員の仕事ではないか。
そう思うようになっていました。
そこで、そのような方向を「正しい」と示してくれるような大学教育(とりわけ大学教授法)に関する海外の研究を調べてまわり、いくつかの手がかりを得ていきました。
その多くが、のちに自分が赴任することになる大学教育の研究機関に所蔵されている文献だったという、奇妙なつながりがあったのですが。
その調査で明らかになったのは、「教える-学ぶ」形式はもう古く、学生が主体的に学ぶような環境づくりと条件設定こそが、教員の仕事だという考え方でした。
そこで、自分が大学で教壇に立つ際には、「教える-学ぶ」形式、すなわち「講義」をやらない方法を採用しました。
受講生たちが、自分たちで主体的に学びを作っていき、学びを内在化させているような授業法の開発と導入でした。
1983年のことです。
ただし、問題がありました。
当時の大学教育関係者、自分の所属している学部の教員にとっては、講義をしないで受講生たちにいろいろと活動させるだけにみえる教授法など、とても受け入れがたいものだったはずだからです。
(教員がどのような授業を行うかは各人の専権事項であり、他の教員は表立って反対や批判はできなかったのですが。)
そこで戦術を練りました。
そのような実践を行いながら、まずこのような教育法が、大学教授法という新しい教育学分野(高等教育論)で世界的に注目されてきており、その方法の適用が欧米の大学で進んでいることを研究論文として、敢えて学部の「紀要」に発表しました。
学部教員や所属大学の教員へのアピールのためです。
特に、教員と受講生が同じ時空を共有するという原理(「同一時空性原理」)が根拠の薄いものであることと、「教える-学ぶ」関係が古い教授法で改革すべきものという位置付けにあることを強調しました。
つぎに、「試行」と称して実施してきた、自分の担当する授業科目での実践の一部始終を研究論文として、学部「紀要」に発表して具体的な内容を理解してもらいました。
これが当時の戦術で、これらの作業を通して、新しい大学教授法に取り組んでいるというふうに周囲の教員から見られるようになったのです。
一例を示そうと思います。
教員養成学部には、「教材研究」と呼ばれる科目が必修科目として存在しました。
将来、教師として教壇に立つ場合に必要となる教材や指導法に関して学ぶ科目です。
私は、この科目で、受講生を小グループに分け、各グループが、「学習指導要領の研究」「教科書比較」「教育実践記録の分析検討」「指導計画の作成」「新教材の開発」「模擬授業準備」「模擬授業実施」「模擬授業合評会」「ポートフォリオの整理・提出」といった細かいステップに分けた活動群にチームとして取り組むこと、その活動記録をポートフォリオとして残すことを求めました。
教師としての私の役割は、開講までに数社から刊行される教科書や教育実践記録の収集、日程やスケジュールの調整と配布資料の準備などを行うことで、実際の活動が始まるとファシリテータやサポーターの役割に徹しました。
実際の活動のなかで、受講生たちは相互に議論を進めることでどんどんと能力を開花させ、模擬授業ではりっぱに教師役をこなし、また合評会でゲスト参加の現職教員や、この科目を過去に受講した経験のある大学院生や4年生からの批判的指摘に対しても、根拠を示した反論ができるまでになっていたのです。
今でこそ、アクティブ・ラーニングといった用語が広く使われていますが、1980年代前半には、珍しかった実践だったと思います。
当時の受講生たちとのちに会食をした折に、「そういえば、先生の講義、受けた記憶がないんですがね。」という言葉がありました。
正直、うれしかったのを覚えています。
私は、約40年間ポリシーとして、「教える―学ぶ」の「講義」は原則として行わなかったのですから。
(むろん、リレー講義や非常勤講師としての1コマの講義などは、やったのですが。)
気づくと、大学教育、大学教授法、人材開発といった別の研究領域へ足を踏み入れていたと思います。
そして、それに着目してくれたのが、これらの大学教授法に関する先行研究の資料を提供してくれた研究センターです。
その研究センターの改組拡大で、新設される「高等教育カリキュラム開発論」という新講座を担当してくれないかという招聘が届いたのです。
また、思わぬ形で、岐路に立つことになったのです。
(以下、第3回に続きます。)