ボストンキャリアフォーラム立ち上げ秘話(第二話 キャリアフォーラムの幕開け)

「ボストンキャリアフォーラム」の元副社長が明かす、フォーラムの舞台裏!一度聞いたら知りたくなる秘話が満載!

  

ボストンキャリアフォーラムの幕開け

第一回ボストンキャリアフォーラムは、ボストン大学のボールルームを借りて2日間の開催。参画企業は都銀、大手メーカーなどを中心に、日本から36社でした。

会場設営中は運悪く会場のエレベータが故障中だったので、(アメリカあるある)日本から送付されてきた会社案内などの激重の資料は、日本から応援に来てくれたディスコのスタッフが階段で二階のホールに運び、スーツ姿で汗だくになりながら滑り込みのオープンとなりました。

一番懸念されていた学生さんは蓋を開ければ長蛇の列!

なんと二日間で960人ほど参加してくれました。

交通費支払いの業務を担って下さった日本協会の事務局長さんは、来場者数に目をみはりながら一日中小切手を書き続けて下さいました。

予想をはるかに上回る学生さんに、受付ホールには会場整理担当者の大きな声が鳴り響き、正に活気に満ちた会場となりました。

この第一回を支えたスタッフですが、今ではディスコで役員になっている方々や定年退職した面々も、当時は若手社員。

海外出張はもちろん初めての中、それぞれがメイク・ストーリーをしながら体当たりで運営にあたり、大成功に導きました。

多種多様の来場者

960人あまりの参加学生の中には、何と遥かハワイから来た学生もいました。

今ほどドレスコードが統一されていない時代でしたが、それでも日本人学生の多くは濃い色のスーツを着用。比較的ラフな服装のアメリカ人とは対照的でした。

アメリカ人の中には乳母車で赤ちゃんを乗せて来場してきたアメリカ人男性もおり、日本から来た採用担当者・スタッフからは「さずが、アメリカだ」と声がもれていました。

来場学生の多様性に驚きながらも、企業の担当者は予想外の人数の学生の対応に追われ、一日中真摯に学生さんにむきあってくださいました。

中には昼食を取る時間もなかったり、即席でグループ別のセミナー形式にしたりした企業も。

ちなみに企業の皆さんと運営スタッフの昼食は大学のケータリングで手配したランチセット。・・・と言っても、アメリカ流の乾ききった硬いパンのサンドイッチとフライドポテト程度のもの。

フォーラム後の参画企業アンケートの改善点リクエストで一番多かったのは、「昼食をもっと何とかしてほしい・・・」というお願いでした!

夜にはボストン日本協会やボストン大学関係者を招いて企業と学生を交え、華々しくレセプションも行われました。

参画なさった企業の皆さんも初めての海外での採用イベントでしたので、それぞれがメイク・ストーリー。話題は尽きませんでした。

クタクタになりながら、驚いたり悲鳴をあげたりしながら、ディスコのスタッフと一緒に新しい時代の採用活動、ボストンキャリアフォーラムの誕生を喜びあいました。

余談ですが、この日のレセプションの後、社員が残って片付けをしていると、アメリカ人男子学生2名が忘れ物を取りに戻ってきました。

聞けばブラウン大学の学生だとのこと。私と同窓という事もあり、ディスコの社長と話をするうちに社長自ら日本企業に売り込むことに。

忘れ物が取り持つご縁で一人は大手サッシメーカーに、そしてもう一人のアフリカ系のアメリカ人学生はディスコ初の外国人社員となりました。

 アルバイトから副社長に

当初は懐疑的だった参画企業の皆さんからも大絶賛していただき、第一回目のボストンは大成功をおさめました。

そしてボストンキャリアフォーラムはディスコの年に一度の目玉企画になる事が決定しました。

その次の年は社数がほぼ倍に増え、来場学生数も順調に増えていきました。

そしてどんどん規模が大きくなるに従い、継続的に現地の業務行う必要が出てきたために、不肖私、ディスコから正式に社員としてオファーをいただくことになったのです。

ただ、当時から現在に至るまで、アメリカの就労ビザの取得は難しいものでした。

特に私の専攻が政治学であったため、専門がポジションに直結していないという理由で、通常の就労ビザH-1Bの取得は不可能でした。

アメリカでは、たとえ会社がオファーを出しても、お国が就労を認めてくれず、ビザが発行されない事は日常茶飯事なのです。

単なる支社扱いだとビザの申請の際に不利だという弁護士のアドバイスで、ディスコは資本金を投じて現地法人を設立し、投資家ビザを申請する事にしました。

そして私が平社員だとパンチがないとの事で、何と「副社長」にしていただいたのでした。何とアルバイトから一躍、現地法人の副社長に出世させていただきました。

不法就労者の烙印

しかし、ディスコの皆様の惜しみない努力の甲斐もなく、結果的に私のビザは却下されてしまいました。

その上、第一回のキャリアフォーラム時の手伝いが不法就労と認定されてしまったのです。

日本のアメリカ大使館で副社長として投資家ビザを申請するために帰国していた私は、九天直下、二度とアメリカに入国できない処分を下されてしまいました。

担当弁護士はこの一件でボストンの大手弁護士事務所を解雇されたと聞きました。

私は短期帰国のつもりで家財道具をはじめ、全てをボストンに置いてきていますし、何せボストンキャリアフォーラムの開催も迫ってきていました。

何人か現地でスタッフは雇っていましたが、現地のオペレーションを唯一知っている私の責務は重大だったので、何としてでもボストンに戻らなければならない状態でした。

都内の弁護士事務所はもちろんのこと、四方八方手を尽くし、果ては永田町の先生方にもお会いしましたが、アメリカ大使館に精通する方には繋がれずじまいでした。

会社ともども大ピンチ、八方塞がりに見舞われたときに、エンジェルが現れたのです。

当時ディスコと同じビルに大手旅行代理店のオフィスがあり、偶然そちらの代表の方とディスコの社長が会ったときに私のことを話したそうです。

大手旅行代理店は、観光ビザなどの発給の手伝いを行うためにアメリカ大使館に社員を出向させていたこともあり、大使館ととても関係が深かったのです。

早速、藁にもすがるような気持ちでそちらの担当者をご紹介いただきました。

そしてなんと、担当の方の機転のきいた交渉のお陰で、私の不法就労は「弁護士の書類誤記載」という事で不問となり、晴れて無罪に。

同時にボストンキャリアフォーラムの運営と引っ越しのために3ヶ月の渡米の許可が下り、すぐさまボストンに戻り、フォーラムの運営に滑り込みました。

そしてその後一年間、日本本社で就労すれば米国駐在ビザの申請が可能ということにもなり、今度は急転直下、晴れて解決しました。

運営スタメン4人組

初年度は学生の交通費を全額補填しましたが、翌年からは上限を設けることに。それでも毎回参加者は増え続けました。
 
アナログな時代の受付は、大勢の来場者をいかに早く入場させるかが重要な任務。
 
統計上必要なデータを収集しながら、交通費補填も正確に審査・発給できるよう、効率よく来場者が受付を流れるように工夫されていきました。
 
受付の流れとしては、まず全員が通過する一次受付。
 
一次受付は大勢の学生の交通整理をしながら受付を処理しなければならないので、社内で一際声の大きい合同企業説明会のエキスパートが担当しました。
 
ちなみにこのエキスパートが事前会場設営の現地打ち合わせに来てくれ、運営部隊の親分となりディスコのスタッフを指揮してくれました。
 
その後30年近く毎年ボストンキャリアフォーラムの重鎮としてご活躍でした。
 
交通費補填が必要な学生さんは、一次受付の次に補填の審査・手続きを行う二次受付で航空券や身分証明書を提示しながら手続きする流れになっていました。
 
しかし、中には交通費補填を利用して、単に観光に来る不届き者も出はじめたのです。
 
第二次受付の手続き中に疑惑が発生すると、再審査係にまわされます。
 
この再審査係は第一回目のボストンキャリアフォーラムでディスコに採用されたスタッフが担当。
 
英語が堪能だったため、受付周りのトラブルなどを受け持っていました。
 
何と彼は、誰が見ても一目瞭然の格闘技出身者で、社内でもトップを争うコワオモテ。
 
ちょっと色付きのメガネをかけていましたので恐さ百倍。心優しい方でしたが、何せ持っているオーラが違いました。
 
「木曜日に飛んで来てて、最終日の日曜日の昼まで会場に来ないってないんじゃない?」
 
「その服装さぁ、、、本当に仕事探しに来たの?」
 
こんな言葉でも、彼が語ると威圧感半端なく、多くの不真面目な来場者を見事に退散させていました。まさに適材適所。無くてはならぬ存在でした。
 
私は後にディスコの社長となる上司と一緒に「運営本部」担当。
 
手首が折れそうになるほどズシリと重い大きなトランシーバーを片手に、参画企業、来場者、運営の様々なニーズやトラブルに対応していました。
 
会場整備担当スタッフの手が足りなかった時は、自ら裏の備品庫から2.5メートルもあるテーブルを担いで、パンプスで猛ダッシュで企業のブースに急いでお届けしたことも。
 
後から持ち上げてみてもピクリとも動かず、我が火事場力にびっくりしました。
 
常にトランシーバーで呼ばれてピリピリしながら走り回る私を、本部では温厚な上司が上手に鎮めてくれました。
 
この上司は常に落ち着いていて、物腰が柔らかく、カスタマーサービスの天才。
 
参画企業の様々なクレームや要望はもちろんのこと、落とし物、忘れ物、はては待ち合わせのトラブル、人生相談に至るまで、一人一人にとても丁寧に、そして臨機応変に対応していました。
 
”会場の運営も大切だけど、一人一人の来場者を大切にする事を忘れてはいけない。”
そう背中越しに教えられました。
 
立ち上げ当初はこの4名がキャリアフォーラムの運営のスタメンとなって常に会をバックアップしていました。

キャリアフォーラム in サンフランシスコ

ボストンで好評だったキャリアフォーラムは、1990年にはサンフランシスコでも開催される事になりました。

アカデミックな雰囲気のボストンとは違い、開放的なカリフォルニアの地での開催は、参加企業も運営スタッフも楽しみにしていました。

ただ、地震が起きたのです。開催3ヶ月前にマグニチュード6.9の地震が発生。高速道路が潰れた映像などをご覧になった方もいらっしゃると思います。

海岸部では液状化現象が発生し、木造建物などの倒壊が相次ぎ、火災も発生。

サンフランシスコの対岸のオークランド郊外を走る高速道路880号では、高架橋が倒壊したり、膨大な被害がありました。

中には参画を見直したいという企業もあり、前述のディスコ本社の運営/設営担当親分と後の社長と共に現地の被害状況の視察に行く事になりました。

幸い会場の近辺には大きな被害はなく、空港からの移動も問題ありませんでした。

でも、いつまた余震が起きてもおかしくない状況。内心ドキドキです。

一緒に行った上司は今でも「あの時は怖かったよな・・・」と。私ばかりでなく、殿方も怖かった模様です。

会場のホテルは壁にヒビが入っていて地震の威力が伺えましたが、余震も収まっていたため運営には特に問題ないと判断。決行することになりました。

「うちの社員が実際に現地を視察して会場も点検してきました。運営には問題ありません!」

こんな私ではございましたが、体を張って安全確認をして参りました。

ユニオンとの戦い

アメリカでのイベントならではの問題がユニオンでした。

アメリカにはユニオンと言われる労働組合があり、荷物の搬入や会場の設営はユニオンが絶大な力を持って仕切っていました。

参画社数が増えてボストン大学では小さくなったため、近隣のコンベンションセンターを借りることになったのですが、このユニオンが大きく立ちはだかりました。

それがたとえダラダラの面々であっても、絶対にこのユニオンを使わなければならないのです。

その多くは時給の労働者だったため、急いで仕事を終わらせてしまうと、実入りが少なくなってしまうので制限時間ギリギリまで、あわよくば制限時間を超えてまでも時間をかけ、できるだけダラダラと仕事をするのです。(アメリカあるある)

ディスコのスタッフや、日本の運送業者が手伝うと、ユニオンの収入が減ってしまうので手が出せませんでした。

設営、資料の運搬はできるだけ早く終わらせ、参画企業の方にブースの飾り付けやセットアップをしてもらうはずが、会場の入り口までは日本の業者が運べても、そこからはダラダラの作業が続きます。

ボストンの参画企業が倍以上に増えた翌年には、荷物の数も増え運搬が間に合うかどうか冷や汗ものでした。

朝からの作業でも遅々として進まぬ中、この調子でランチ休憩でも取られたら、絶対に間に合わない・・・危機感が迫ってきました。

そこで私は日本からのスタッフ数人と一緒に近所のスーパーにでかけ、飲料や食料をたんまり買い込んで会場に戻り、ユニオンの親分に笑顔でお話しました。

「本当にありがとうございます。これで足りるかどうか分かりませんが、どうか皆さん一度お手をとめてお召し上がりください。」 

「オーサンキュー」

・・・みんなが集まってきて飲み食いを始める・・・

「ところで・・・3時には企業が入ってきてブース設営の作業する事になっているので、どうしてもそれまでに荷物を各ブースに振り分けなければなりません。

そこでどうでしょう、何時に終わろうとも皆さんにはお約束の6時までの費用はお支払いしますので、どうか我々のスタッフを使っていただけないでしょうか。

いや、お手間はかけません。エレベータで荷物さえ運んでくだされば(エレベータはユニオンしか操作できない)、後はうちのスタッフが運びます。

このバッジをつけているのがうちの社員なので、アシスタントに使ってやってください。

また後で買い出しに出ますから、スナックや飲み物等、なにか欲しいものがあったら言ってください。」

話を聞いていたユニオンのメンバーはサンドイッチや飲み物を片手に口々に

“いい話じゃないか” “日当さえ保証されればいいんじゃない?” と、次々に助け舟が登場!

飲食料差し入れのお陰で、不機嫌そうにダラダラ働くユニオンの皆さんとすっかり打ち解ける事ができました。

太陽作戦、大成功。何とか交渉は成立し、ディスコのスタッフと運送業者さんが荷物の搬入を手伝うことができ、無事参画企業の皆さんがいらっしゃるまでに企業のお荷物は各ブースに落ち着く事となりました。

「お手伝いをさせていただく」のも、一苦労のアメリカでした。

次回はキャリアフォーラムがヨーロッパに進出した時のお話です。

ボストンキャリアフォーラム立ち上げ秘話(第一話 はじまりのはじまり)

ボストンキャリアフォーラム立ち上げ秘話(第三話 キャリアフォーラム・ヨーロッパへ)

 

Who is writing

株式会社経営人事パートナーズ Executive Research Specialist / International Career Advisor

☆1983-1986年 海外子女教育機関・ボストン日本語学校教員・教頭 

☆1987-1993年 株式会社ディスコ・ボストン現地法人副社長、本社国際営業課長としてバイリンガル人材の就職説明会、ボストンキャリアフォーラムの立ち上げ、運営に従事。

☆1996年 日米教育交流(留学支援)の会社WAVE USA, Inc. (Worldwide Academic & Vocational Exchange USA, Inc) を設立。

☆2016-2021年 Weiss Ratings社・国際情勢リサーチアシスタント

☆2017-2021年 ギフティッド教育に特化した私立小中学校、The Weiss School非常勤講師

☆2022 財団法人東京財団政策研究所CSR研究プロジェクト リサーチアシスタント

<学歴>
☆マサチューセッツ州立大ボストン校政治学部卒。
☆ブラウン大学大学院政治学部国際政治学専攻卒。政治学修士。

<得意分野>#バイリンガルキャリア開発 #国際人材開発 #アメリカで起業 #アメリカの教育 #ギフティッド #留学 #語学習得・バイリンガル  #アメリカ政治&Z世代 #アメリカ生活