大切な人の死
1992年頃、建設現場の監督(施工管理技士)として勤務していた私は、極端に短い工期に追われ続けていました。
加えて、当時の上司による陰湿かつ執拗なパワハラに苛まれながら、ただひたすら耐えるだけの毎日を送っていました。
もう30年以上も前の話ですが、あのときの苦しみは今でもハッキリと覚えています。
というより、いまだに鮮明なフラッシュバックに悩まされます。
どうしても消し去ることのできない記憶として脳裏に深く刻まれているのです。
とはいえ、こういった話は日本では決して珍しくはありません。残念ながら。
とても残念なことに、多くの人々が同様の苦しみを日々味わっています。
だから当時の私は「運がなかった」と半ば諦めていました。
どれだけ悩み苦しもうと現場は容赦なく動いていくからです。
工事をスムーズに進捗させることが現場監督の責務である以上、とにかく耐えるしかない。
そう思って任にあたっていました。
ところが、同じく92年の秋ごろ、とても悲しい知らせが届くことになります。
社の先輩であるFさんが自ら命を絶たれたのです。
本社での朝礼の際にその報が伝えられたとき、ただただ呆然とする以外になかったことを覚えています。
初めて私が一人で現場を預かった際、自分の仕事を終えた後で夜遅くに現場を訪ねては親身になってアドバイスしてくれた唯一の人が、他ならぬそのFさんだったからです。
しかし、その悲しい報せに涙していたとき、ふと周りを見ると、件の上司を含む社員たちの大半はもう何事もなかったように平然としていました。
仕事の電話をかけたり、図面を広げて打ち合わせをやっていたり。
悲しむ様子なんて皆無。
それは信じがたい光景でした。
大切な同僚が亡くなったというのに、どうしてこの人たちは「普通」に振る舞うことができるのだろう・・・。
「え? 宮崎くん、君泣いてるの?」という上司の冷たい一言を忘れることができません。
闘病
そして再び現場での毎日が始まると、そこからはまた怒涛のような・・・と言うしかない、とにかく多忙を極める日々が続きました。
工程表と膨大な量の施工図を書いては書き直し、検査をし積算し、施主や設計士や業者や職人さんたちとの打ち合わせを繰り返し、資材を運び入れたりしながら、現場の管理監督に務める。
安全・工期・品質の管理にはわずかなミスも許されません。
掛け持ちしている現場の数は5つ。いつも通りの流れです。
でも、あの92年の秋を境に、私の心と身体は明らかに異変をきたすようになっていきました。
上司のパワハラは相変わらず続き、設計士の横暴に振り回され、深夜までの仕事が連続し、72kgだった体重は49kgにまで落ちていました。
彼女(現在の妻)は泣いて仕事を休むよう懇願してくれていましたが、現場を任されている以上、休むわけにはいきません。
しかし94年の春、連続2週間の徹夜作業を終えると、ついに私の心身は悲鳴を上げました。
明け方の5時ごろに一旦自宅へ戻ったところで倒れ、そのまま救急搬送。
いま思えば、よくぞ現場から自宅までの距離を運転できたものです。
倒れた私を最初に見つけた彼女によれば、呂律がまったく回っていなかったそうです。
そこから24時間ほど眠り続け、気がつけば身体は病床の上。
医師の診断は、いうまでも過労。そして心労。
「あと1日徹夜をしていれば危なかった」と医師に告げられていました。
そして即刻入院。文字通り身も心もボロボロになっていたからです。
特に「ココロ」の状態は危険な域にありました。
間もなく精神科に回され、治療を受けることになったのですが、より専門的な医院に移るべきだと判断され、福岡の精神科病棟に入ることになりました。
いうまでもなく、病名は重度の「うつ病」です。
その症状と院内の描写はあまりにも重くなるので、ここでは省略します。
ただ言えるのは、常に死と隣合わせにあったということです。
外へ出歩かないようにと、厳重に管理されている個室に入れられ、夕食のときだけ他の患者さんたちと接するという毎日を過ごすようになりました。
とはいえ、その食事を満足に摂ることはしばらくの間できなかったのですが。
そうして半年が経った頃、こう医師に問われていました。
「どこか行きたい所はない?」
私は、迷うことなく「イタリア」と答えていました。
イタリアの空
そしてさらに数ヶ月が過ぎた頃、「海外を旅行するだけの体力は回復しているよ」と医師に言われると、私は真剣にイタリアへの旅を思い描くようになりました。
イギリス人と日本人の夫婦が一台のバイクで世界一周する様子を描いた「地球に恋してタンデムラン」という本を買い、何度も何度も読み返していました。
では、なぜ私がイタリアを選んだかというと、まずは子どもの頃から大好きな国だったからです。
といっても、小学生当時の私が何か特別な理由を持っていたからではありません。
ただ何となく「陽気な国」というイメージを抱いていたからに過ぎなくて、子どもの頃、地図帳を広げてはずーっとヨーロッパのページを見ながら勝手にイタリアへ行く自分を想像していました。
そしてもう一つ、大人になってからできた理由があります。
それは一人のサッカー選手。
名は、ロベルト・バッジョ。
〝イタリアの至宝〟と呼ばれていた彼は、私が倒れる1年ほど前に〝バロン・ドール〟という、世界で最も優れたサッカー選手に与えられる賞を受賞していました。
1993年。当時はもちろんYouTubeなどない時代です。
深夜のサッカー番組で放送される彼のプレーを録画し、文字通り食い入るように見続けていました。
さらに、その〝バロン・ドール〟受賞から遡ること3年。
1990年にはイタリアでワールドカップが開催されます。
そして、対チェコスロバキアでバッジョは、同大会で最も美しいとされるゴールを華麗に決めてみせると、世界中のサッカーファンを虜にしていました。
そのプレーを見たとき、私は心の中でこう呟いていました。
「いつかイタリアへ行って、この目で絶対に見てみたい!」。
以来、私のイタリアへの想いは常に心の中に熱いものとして存在するようになったのです。
そして94年には米国でワールドカップが開催されます。
その大会でバッジョはイタリアを決勝の舞台にまで導き、しかし勝負を決する最後のPKを外してしまうという悲運に見舞われます。
とはいえ、故障に耐えながら灼熱の太陽の下で最後まで走り切った彼の姿に完全に心を奪われていました。
是が非でもバッジョのプレーを間近で見たい。
そう一層強く思うようになっていたのです。
そんな中、主治医が「好きな国を旅行しておいで」と言ってくれている。
つまり、自分が 意志を固めさえすれば、あの憧れの国に行ける。
心に湧き上がってくる興奮を抑えきれずにいました。
しかし、私は会社員の身。長期入院している立場の者が海外旅行など許されるはずがない。
行くならば退職するより他ありません。
迷っていたとき、私が最も信頼する人物、実の兄が「行ってこい!」と背中を押してくれました。
その一言で会社を辞める決心がつき、95年の冬、私はついに憧れのイタリアの地を踏みました。
着いたその足でミラノの巨大なスタジアムへ向かい、8万の観衆が一斉に歌うド迫力に震えながら、夢にまで見たロベルト・バッジョを至近距離から見ていました。
そして翌朝、初めて見るイタリアの空の青さにただただ心の底から感動していました。
なんて美しい碧なんだろう・・・。
街に漂うエスプレッソの香りが心を優しく癒してくれているような、それまでに感じたことのない不思議な感覚に包まれていたのです。
決心
そして、わずか1週間の旅だったとはいえ、その夢のような7日間で私は、「うつ」の症状に苛まれないでいる自分に気づきます。
ところが、帰国すると再び薬なしでは生活できない状態に戻る。
だから私は、その頃から、心の中で「移住」を考えるようになりました。
しかし、いざ移住するにはまとまった額が必要なのは言うまでもありません。
だから私は一か八かで仕事に復帰する決意をします。
一社員として生きるのが精神的にもたないのならば、自ら会社を立ち上げて独立するしかない。
友人と二人で起業し、主に飲食店といった店舗のデザインと内装工事を請け負う仕事に就くことにしました。
イタリアへ渡る資金を貯めるために。
心と身体とよく相談しながら、懸命に一日一日をつないでいく。
そんなギリギリの日々をスタートさせたのです。
そして病と闘いながらの3年を経た日、正確には1998年5月7日。
遂に出発の日を迎えます。
私は家内と一緒に再びイタリアの地を踏んでいました。
結婚からわずか3ヶ月での移住です。
ロベルト・バッジョを間近で見続けるために、ただそれだけのために私はイタリアへ渡りました。
移住先に選んだのは、フィレンツェ。
高名な詩人ダンテ・アリギエーリゆかりの地でもあることから、イタリアで最も語学教育が盛んな街ということ。
二大都市ミラノとローマのちょうど中間に位置する街であるということ。
などがフィレンツェを選んだ主な理由でした。
みなさんご存知の通り、きっと世界屈指の美しさを誇ると言っても過言ではないはずの街です。
しかし当の私のイタリア語といえば、日本で少しずつ勉強していたとはいえ、とても使える代物ではありません。
朝は辞書を片手に新聞でバッジョの記事を読み、昼はその記事について話すラジオを聴き、夜は再びそのバッジョについて語るテレビを観る。そして録音したラジオを聴きながらベッドに入る。
ロベルト・バッジョとサッカーを書くジャーナリストとして生きていこうと決めた私は、記事を書きためると決死の覚悟で東京へ行き、出版社を回る。
語学学校とフィレンツェ大学で必死に勉強しながら、そんな日々を続けていました。
そして96年の秋、旧市街の一角にあるアイリッシュ・パブでビールを飲みながらサッカーを観ていた私は、たまたま隣に居合わせたアレッサンドロ・リアルティという名のジャーナリストと出会います。
のちに私はその彼のことを「ボス」と呼ぶようになるのですが、偶然に会っただけの私に彼は実に様々な便宜を図ってくれ、イタリアでジャーナリストとして生きていくために必要な手続きへと導いてくれたのです。
おかげで私はイタリア国立記者協会に所属することができている。
そのボスのおかげで様々な人物と会うことができたからこそ、今日にみる人脈を築くことができた。
何より、2000年の夏と2004年の秋にはあのバッジョと〝一緒にトレーニングする〟という奇跡のような幸運に恵まれ、サッカーの現場(練習場やスタジアム)へ通う毎日を送れるようになったおかげで私は「うつ」を忘れることができるようになった。
少なくとも98年から2016年までの18年間、うつに苦しむことはなかったのです。
日本の出版社BとKに欺かれるまでは。ですが、それはまた別のお話です。
私が今回こうして自らの病について書いたのは、タイトルの通り、「今、行き詰まっている方へ」応援のメッセージを届けたかったからに他なりません。
苦しんでいる時、その場所から一度離れてみる勇気を持ってほしいと切に願います。
98年に私は日本から逃げました。
そのことを当時は恥じていたものですが、今となっては間違いではない選択だったと思うことができます。
あの時の私が生き延びるための唯一の術、それがイタリアへの移住だったと今もしっかりと確信しているからです。(了)