今年も間もなくゴルフの祭典「マスターズ」が開幕します。
今回は、そのマスターズの舞台である「オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ」ができるまでの物語についてご紹介しましょう。
「チームボビー」が作った祭典の舞台
様々なドラマが生まれたマスターズですが、特に日本人の記憶に残っているのは、何と言っても2021年の松山英樹選手の優勝でしょう。
松山選手はキャディを始め通訳、コーチ、トレーナーによる「チーム松山」を組んでツアーを転戦しており、マスターズ制覇もそのチーム力での勝利として注目されました。
実は、トーナメントの行われるオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブも、いわば「チームボビー」により作り上げられたコースなのです。
「球聖」ボビー・ジョーンズ
その「チームボビー」のリーダーとも言えるのが、20世紀初頭から1930年代にかけてアメリカで大活躍したアマチュアゴルファー、ボビー・ジョーンズです。
1902年にジョージア州アトランタで生まれた彼は、1916年に初めて全米アマチュアに出場して以来、その生涯で全米オープン4回、全英オープン3回、全米アマチュア5回、全英アマチュア1回の優勝を飾り、「球聖」とも呼ばれています。
中でも1930年は、全英アマで念願の初優勝を遂げると、続く全英オープン、全米オープン、全米アマでも優勝し、1年で4つのタイトルを総なめにする前人未到の快挙を達成しました。
当時のマスコミは、トランプゲームの一種である「コントラクトブリッジ」におけるパーフェクトゲームの呼び名になぞらえて、「グランドスラム達成」と称賛したのです。
しかしその一方で、ジョーンズはかねてから競技出場による疲れとプレッシャーに悩まされていました。
そして1930年、グランドスラムを達成したその年に現役を引退。家族や友人達とプレーを楽しむためのゴルフコースづくりへと動き出します。
そしてそんなジョーンズの前に現れたのが、オーガスタの設計パートナーとなるアリスター・マッケンジーです。
「名匠」アリスター・マッケンジー
マッケンジーは1870年にイングランドのヨークシャーで生まれました。
ケンブリッジで薬学を学び、その後医学も学んだマッケンジーは、1899年に現在の南アフリカで勃発した第二次ボーア戦争に軍医として従軍します。
この際、敵軍が塚と塹ごうを使って相手に距離を錯覚させるカモフラージュ技術を目の当たりにし、後に自身が行うコース設計にも活かされました。
その後、1907年にコースの設計活動を開始したマッケンジーは、その実力を買われハリー・コルト(英・ウェントワースの設計や、英・ミュアフィールドや英・サニングデールの改修設計を行う)やチャールズ・アリソン(日・廣野ゴルフ俱楽部や日・川奈ホテル富士コースを設計)とコース設計のパートナーを組んでいました。
しかしさらに活動の場を広げたかったマッケンジーは、1920年代に袂を分かちます。活動の場を海外に移したマッケンジーは、1926年に豪・ロイヤルメルボルンのウェストコースの設計を行った後、アメリカに移住。
以後、亡くなるまでアメリカを拠点に設計活動を行いました。
ジョーンズとの最初の出会いは1926年とも1927年とも言われていますが、はっきりしていません。ただ、ジョーンズがオーガスタの設計パートナーに選んだのは、1929年にあった出来事がきっかけです。
その年、西海岸のペブルビーチで行われた全米アマに参加したジョーンズでしたが、マッチプレーによる決勝トーナメントでよもやの1回戦負けとなりました。
時間のできたジョーンズは、会場近くにあり前年に開場したマッケンジー設計のサイプレスポイントをラウンドし、コースの見事さに感銘を受けます。
その後マッケンジーの著作を読み、また彼が設計した他のコースもラウンドした上で、設計パートナーのオファーを打診したのです。
こうしてジョーンズとマッケンジーが手を組み、コース作りへと動き出しました。
理想としたのは、二人がともに愛した英セントアンドリュース・オールドコースの様な戦略性を持ちながら、多くの人々が楽しめるゴルフコースです。
しかし当時、そこには強烈な逆風が吹いていました。1929年に始まった世界恐慌です。
既存のコース運営もままならぬ中、新たなコース建設など夢のまた夢…。そんな時にある人物が救いの手を差し伸べます。
ジョーンズの友人であった敏腕ビジネスマン、クリフォード・ロバーツその人です。
「辣腕」クリフォード・ロバーツ
ロバーツは1894年、アイオワ州に生まれます。高校を卒業したロバーツは、大学には進みませんでした。
紳士服の露天商を営んだのち、第一次世界大戦時に陸軍の通信兵としてオーガスタ近郊に駐屯した際に、オーガスタとの接点を持ちます。
戦後、テキサスでの油田投資で得た5万ドルとも言われる利益を手に、ニューヨーク・ウォール街に進出。株取引や不動産業で更なる成果を上げていきました。
若いロバーツを成功に駆り立てた一因には、19歳の時にロバーツを襲った母の自殺という悲劇もあったのではないかと言われています。
ボビー・ジョーンズとロバーツは、世界恐慌が始まる前からの友人でした。
ジョーンズは一流のアマチュアゴルファーでありながら、ジョージア工科大で機械工学、ハーバード大で英文学、エモリー大では法律学を学び弁護士資格も取得した一流のインテリでもありました。
その上、魅力的な人間性やルックスも相まって、時代のヒーローと言える存在でした。今ならばタイガー・ウッズ並み、あるいはそれ以上と言えるかもしれません。
そのためビジネス界も含め交友関係も広く、その一人がロバーツだったのです。
コース建設の理想を聞いたロバーツは「アメリカのヒーローであるジョーンズが作るコースとあれば、恐慌下の今であっても出資する資本家はいる」と判断、出資者集めを買って出ます。
そんな中、更なる幸運が訪れます。二人の共通の友人から、オーガスタにあるかつて種苗場だった丘陵地を、コース建設地として提案されたのです。
その地をロバーツと共に下見に訪れたジョーンズは、「この土地は、誰かが来てゴルフコースにしてくれるのを待っていたようだ」と語ったそうです。
出資を申し出る会員が80名も集まるなど資金集めにも目途が付き、1931年11月、ジョーンズ、マッケンジー、ロバーツの「チームボビー」らはオーガスタ・ナショナルの建設を開始。それから2年後の1933年1月に、コースは正式オープンしました。
そしてさらに1年後の1934年3月、ジョーンズがゴルフ仲間やライバルたちを招き、当時は「オーガスタナショナル・インビテーション・トーナメント」と呼ばれた第1回目のマスターズが開催されたのです。
「チームボビー」の適材適所
最後に、「チームボビー」の晩年についてご紹介しましょう。
オーガスタ、そしてマスターズを通じて世界の一流ゴルファーとの交流を楽しんでいたボビー・ジョーンズでしたが、1948年から脊髄の骨が異常に発達する神経機能障害に侵されはじめます。
2度の手術も受けましたが回復は見られず、やがて脳から末梢神経への伝達を断ち切る脊髄空洞症へと進行。晩年は車いす生活を余儀なくされます。
脊髄への激痛に苦しむ日々でしたが、最後まで若く有望なゴルファーたちを励まし続けながら、1971年に69歳で亡くなりました。
設計パートナーであったアリスター・マッケンジーの晩年は、少々さみしいものとなってしまいました。
1933年にオーガスタ・ナショナルはオープンしたものの世界恐慌の余波は避けきれず、マッケンジーへの設計費1万ドルが支払えませんでした。
そのため、マッケンジーの生活は経済的な余裕のないものだったと言います。
そして1934年正月に心臓発作を起こし、その6日後に65年の生涯を終えました。
オーガスタの設計を終えるとカリフォルニアにあった自宅に戻ったため、完成したコースも、そしてマスターズの始まりも見ることの無かったマッケンジーでした。
しかし生前、「オーガスタ・ナショナルは、私の最大の仕事であり最高の出来栄えだ」と話していたそうです。
クリフォード・ロバーツはコースのオープンと共にオーガスタ・ナショナルの初代会長となり、辣腕をふるいました。
当初乗り気でなかったジョーンズを説得して初期のマスターズに出場させることで、オーガスタ・ナショナルならびにマスターズへマスコミの注目を集める事に成功。
その後も、ギャラリーロープの導入やツーサム(2人一組)の採用、トーナメントのカラー放送での中継など、マスターズを世界一のトーナメントとするための様々な試みを導入しました。
晩年病気を患い、もはやマスターズを取り仕切れない事を悟ったロバーツは、1977年に自らの手で84年の生涯に幕を下ろしました。
誰もが認めるリーダーであったジョーンズ、彼を経験豊かな右腕として支えたマッケンジー、実務面を見事に取り仕切ったロバーツ…「チームボビー」はそれぞれ後世に名を残す3人が、自らに見合ったポジションで能力を発揮しあったドリームチームと言えるでしょう。
そんな「チームボビー」が作り上げたオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブは、数々の改修を重ねながら今日に至るまで「マスターズ」の舞台であり続けてきました。
果たして今年は、どのようなドラマが展開されるのでしょうか。