【偉人と働きたい】超合理主義、同調圧力には屈しない、無愛想だが家族想い ー 大村益次郎

もし偉人と一緒に働くことができたとしたら・・・・・・?第2回目は大村益次郎。益次郎の生涯と、一緒に働きたい理由を解説します!

  

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

もしも大村益次郎と一緒に働くことができたとしたら・・・

日本の歴史に名を刻んだ、尊敬すべき偉人たち。

もし彼らの部下や同僚として一緒に働くことができたとしたら……?

そんなワクワクするような妄想を展開するこのシリーズでは、尊敬すべき・愛すべき偉人たちから、現代の仕事にも繋がるマインドを楽しみながら学んでいきたいと思います。

 

第2回は、大村益次郎。

長州藩(山口県)出身で、村医から軍事学者・軍人へとキャリアチェンジをした人物です。

西洋兵法を徹底的に研究して日本の軍制を改革し、近代陸軍を創設した功労者として称えられています。

経歴からもお分かりのとおり抜群に頭脳が切れる人だったのですが、かなり個性的かつ魅力的な人柄だったようで・・・・・・。

 

大村益次郎の生涯

文政8年(1825年)、周防国吉敷郡鋳銭司村字大村(現在の山口県山口市)の村医の家に誕生。

天保13年(1842年)に蘭方医・梅田幽斎のもとで蘭学を学び始め、翌年には豊後国(現在の大分県)の儒学者・広瀬淡窓の咸宜園に入塾して学びました。

弘化3年(1846年)、摂津国(現在の大阪府)にあった緒方洪庵の適塾(適々斎塾)で蘭学と医学を学び、成績優秀者だったため塾長に任命されました。

その後嘉永3年(1850年)には故郷に帰り、村医として医院を開業。しかし益次郎の無愛想かつ不器用な性格もあり、医院はまったく人気がありませんでした。

医院が流行らない分、大好きな勉強をする時間はたっぷりあったのかもしれません。

 

そんな益次郎の才能を長州藩よりも先に見抜いたのが、宇和島藩主の伊達宗城です。

不遇の村医時代と打って変わって、嘉永6(1853年)年に移籍した宇和島藩では破格の好待遇を受けながら、西洋兵法の研究や専門書の翻訳、軍艦設計の指導などを任されます。

その後更なる軍事学の研究のため江戸に行くことを許され、安政3年(1856)には蘭学塾・鳩居堂を開塾。

江戸でも「宇和島からやってきた優秀な人がいる」と話題をさらい、徳川幕府の蕃書調所(洋学研究所)教授方手伝(准教授)、講武所の砲術教授など要職を歴任。

その噂を聞きつけてショックを受けたのが、出身地の長州藩でした。

 

「長州藩に返して欲しい」と頼まれた宇和島藩主・宗徳は、毛利家と親戚関係でもあったため強く拒否できず、これからも宇和島藩の仕事を兼任するという条件付きで仕方なく長州藩への移籍を認めることになります。

その後明治元年(1868年)~明治2年(1869年)の戊辰戦争では東征軍参謀として、明治政府では兵部大輔として活躍。

自身も農民階級出身だった益次郎は、それまで士族だけのものだった軍事を農民や商人などすべての日本国民の手に委ね、近代的で合理的な軍隊を誕生させたのです。

しかし益次郎の軍制改革に反対していた士族によって、明治2(1869)年に殺害されました。

 

大村益次郎と働きたい理由①効率性重視でムダな会議や書類がなさそう

伝統や慣習、体裁よりも合理性や効率性を重視するのが益次郎。過去に誰かが作ったルールにやみくもに従うのではなく、意味のない理不尽なルールは変えてしまえばいいというタイプです。

長州藩が幕府軍と戦った慶応2年(1866年)石州口の戦いでは、筆頭参謀として指揮をとった益次郎でしたが、その出で立ちは檜笠(農作業用の笠)に浴衣に渋団扇という簡素なものでした。

参謀なんだからもっと立派な服装をしなければ、とは思わなかったのでしょうか。

合理主義者で質素な性格の益次郎らしいエピソードです(『大村益次郎先生小伝』井上清介 著 p23)。

もし益次郎と一緒に働くことができたとしたら、ムダな会議や書類がなくなり、かなり仕事がしやすいはず。

益次郎が現代にタイムスリップしてきたら、ITの専門知識を光の速さで吸収して業務効率化を図り、働き方改革を進めていたでしょう(何となくExcelとか好きそう)。

社内で反発する旧勢力がいようが、きっとお構いなしのはず。

意味不明・根拠不十分な同調圧力には屈することなく、最終ゴールだけを見ながら部下を頼もしく引っ張っていってくれそうです。

また“飲みニケーション”もあまり好きではなかったようです。令和の若い世代とも馬が合いそうな感じがしますね。

 

大村益次郎と働きたい理由②「良い」と思ったら決断と行動が早そう

合理主義者は、無駄を嫌います。

益次郎は超のつく合理主義者だったので、「良い」と思ったら時間を無駄にしないためにも、すぐに決断を下し実行してくれるはず。

たとえば宇和島藩から長州藩所属に戻った36歳の頃には、「オランダ語の次は英語の時代だ」ということで、アメリカ人講師のもとでいち早く英語も学び始めています(『大村益次郎 全国を以て一大刀と為す』竹本知行著 p108)。

また英語と並行して、数学も熱心に勉強していました。

幾何・代数・微分積分などに精通し、自分の学生に対しても「軍事学には数学が必須だから数学を学べ」と口癖のように言っていたそうです(『大村益次郎先生小伝』井上清介 著 p17)。

軍事の研究に教育にと忙しいスケジュールの合間をぬって、英語や数学も猛勉強していたのですから、時間の使い方もかなり上手だったのだと考えられます。

また感情よりも客観的事実を重んじるタイプなので、一時の感情に左右されることなく、的確な判断を下してくれるでしょう。

一緒に働く者としては、決断と行動が速くて常に冷静な上司は頼もしいですよね。

 

大村益次郎と働きたい理由③表裏なく本当のことしか言わないので信頼できそう

「無愛想で人付き合いが苦手」「コミュニケーションが不得意だった」などと評されることが多い益次郎。

しかし、人によってはむしろ付き合いやすいと感じられるかもしれません。

愛想笑いやお世辞は苦手な性格だったそうですが、裏表がないので信頼できそうです。

表面上はニコニコしているけれど腹黒い人よりも、その真逆の性格をしている益次郎みたいな人と一緒に働きたいと思うのは、筆者だけではないでしょう。

益次郎の数々のエピソードからは、権謀術数とはほど遠い実直で素朴な人柄が伺えます。

たとえば、ある人が春雨の季節に「よう降ることでございます」と話しかけると、益次郎は「春はこんなものです」。

また夏に「お暑うございます」と挨拶すれば、「夏は暑いものです」と返していたそうです(『大村益次郎 全国を以て一大刀と為す』竹本知行著 p36)。

季節の挨拶ですら言われたことをそのまま受け取り、言葉の裏や行間を全く読もうともしない性格が浮かび上がってきます。

私生活においては、無欲で質素な人だったそうです。酒はたしなむ程度、門弟をもてなす時の“ご馳走”は湯豆腐か煮豆。

また三味線嫌いだったこともあり、今で言う“夜のお店”で遊ぶこともなく、非常に真面目な暮らしぶりだったと伝えられています(『大村益次郎先生小伝』井上清介 著 p34ー35)。

もちろんプライベートをどう過ごすのかは個人の勝手ですが、派手な夜遊びや浮気ばかりしている上司や同僚がいたら、こちらにも火の粉が飛んでこないか警戒してしまうものです。

気の利いたことは言わないけれど、仕事が抜群に優秀で素朴な人柄の益次郎は、一緒に働く側にとっても安心感がありそうです。

 

大村益次郎と働きたい理由④無愛想だけど義理堅く、意外と接しやすそう

こちらは公私の区別をしっかり付けて仕事に集中したいと思っていても、個人的な感情をむき出しにして絡みついてくる上司や同僚がいるとウンザリしてしまいますよね。

他人のプライベートを詮索したがる噂好きな人や、立場を利用したセクハラ・社内不倫などを企んでいる人が社内にいると、仕事に支障をきたすことがあるので非常に迷惑です。

一方で益次郎は、嫉妬、執着、虚栄心、支配欲、愛憎などのドロドロとした感情とはおそらく無縁。

情緒よりも論理を重んじる、幕末理系オタクです。

適塾時代の益次郎は、勉強熱心で品行方正。酒色を遠ざけ、同僚とは一定の距離を保っていたそうです(『大村益次郎 全国を以て一大刀と為す』竹本知行著 p26)。

もし職場に益次郎がいたら、きっとくだらないゴシップや痴情のもつれには一切興味を示さないでしょう。

かといって、ドライで無機質な性格なのかというと、そういう訳でもなかったようです。決して社交的ではないけれど、数少ない親友や家族など心を許した人に対しては義理堅く温かい一面も。

益次郎が家族に宛てて書いた手紙の数は多く、父親や妻・琴子に対する優しい言葉が記されています。

仕事のために宇和島や江戸に行くことになった際には、琴子も遠路はるばる追いかけてきて一緒に暮らしたりと、なかなかのおしどり夫婦&愛妻家でもあったようです(『大村益次郎 全国を以て一大刀と為す』竹本知行著 p422ー425)。

また恩師や自分の門弟に対しても、礼儀正しく非常に親切でした。

職場では一定の距離感を保ちつつ職務に没頭し、家族との絆は大切にする。世話になった師匠には恩を返し、自分も門弟の世話をやく。

まさに理想の仕事仲間と言えるでしょう。

 

大村益次郎と働きたい理由⑤クールに見せかけて誰よりも強い情熱がありそう

“感情よりも論理”の益次郎。とてもクールなイメージがありますが、実は誰よりも強い情熱と信念を秘めているタイプだと思います。

「日本を強い国にする」「日本を守る」という大きな志があったからこそ、そこにたどり着くまでの過程では無駄なことを極力排除して、合理性を重視していたのではないでしょうか。

まだまだ刀を持った士族が実権を握っていた幕末の時代に、上記のような抜本的な改革を一気に推し進めることは(しかも益次郎自身も庶民階級出身)、並大抵の苦労ではなかったはずです。

たとえ自分ひとりが大変な思いをしてでも、国のために大きな仕事を成し遂げようとしていたという意味では、無愛想なイメージからは想像できないほど強い利他の心を持っていたとも言えるでしょう。

蕃書調所勤務時代に益次郎が長州藩政府に送った手紙には、幕府に対する激しい怒りと共に、本気で日本のことを大切に想っていたことも滲み出ています。

 

<叡慮を欠き、勅命を無視し、逆に生麦事件の賠償金を渡し、それに加えて醜夷と心を合わせてやつらの軍艦を借りて兵を京都に送り、尚又このたびは馬関の挙動を幸いに防長を売り、わずかな時間の安逸を得て不道理なさんとしている罪は言語に尽きません。この上は、在神奈川ならびに在江戸の大小役人や、それに与する大名や旗本の肉を裂き首をはねて異人に示して拒絶を申し渡すのです。皇国の人心が一致するほかなく、どうしようもありませんが、ご英断があってほしいことでございます。>(『大村益次郎 全国を以て一大刀と為す』竹本知行著 p142ー143)

 

昔から日本では“秘すれば花”とか“鳴かぬ蛍が身を焦がす”などと言いますが、益次郎もそのタイプとお見受けしました。

一見いかにも冷徹そうに見えて実はハートが熱いなんて、正に理想の上司ですよね。ただ単に頭が良くて仕事ができるだけでは、人の心は惹きつけられません。

 

まとめ

無愛想で周囲と一定の距離を置くけれど、家族や親友や師弟など心を許した人や世話になった人のことは大切にしていた益次郎。

真面目で誠実、そして義理堅い性格なので、仕事仲間として信頼できそうです。

しかも極めて頭脳明晰で、先見性も情熱も信念もあった・・・・・・。

もし益次郎みたいな上司だったら、一生ついていきたいと思う人は多いのではないでしょうか。

 

参考:
国立国会図書館 近代日本人の肖像
『大村益次郎先生小伝』井上清介 著(国立国会図書館デジタルコレクション)
宇和島市ホームページ
『大村益次郎 全国を以て一大刀と為す』竹本知行著(ミネルヴァ書房)

 

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ウェブライター。専門家への取材記事、求人広告のライティングなど様々なジャンルで「書く仕事」を行っている。海外ドラマやドキュメンタリーが好きで、エンタメ専門メディアにてレビュー記事も寄稿している。