【偉人と働きたい】55歳から夢に挑戦!年下に学ぶ謙虚さも真似したい ー 伊能忠敬

もしも伊能忠敬と一緒に働くことができたら・・・・・・?この記事では伊能忠敬のスゴい仕事人生をご紹介。一緒に働きたい理由も解説します。

  

画像:千葉県香取市 伊能忠敬記念館所蔵

もしも伊能忠敬と一緒に働くことができたとしたら……

日本の歴史に名を刻んだ、尊敬すべき偉人たち。

もし彼らの部下や同僚として一緒に働くことができたとしたら……?

そんなワクワクするような妄想を展開するこのシリーズでは、尊敬すべき・愛すべき偉人たちから、現代の仕事にも繋がるマインドを楽しみながら学んでいきたいと思います。

 

初回は、伊能忠敬。

日本全国を徒歩で測量してまわり、初めて科学的データに基づく日本地図を作った人物です。

学校の歴史の授業にも必ず出てくるので、知らない人はいないでしょう。

たしかに日本地図を作成したという偉業は有名ですが、そこに至るまでの人生は意外と知られていなかったりします。

実は伊能忠敬はもともと商人としてビジネスの世界にいた人であり、隠居後に子どもの頃から大好きだった科学への道を歩み始めたのです。

定年退職した後やりたかった事にチャレンジする人は現代にも多いですが、驚くべきは伊能忠敬の驚異の行動力と柔軟性とリーダーシップ、そして忍耐力。

以下では、伊能忠敬の生涯と、職業人としての魅力と学ぶべきポイントを解説していきます。

伊能忠敬の生涯

伊能忠敬は延享2年(1745年)、上総国山辺郡(現在の千葉県山武郡九十九里町)の小関村に名主・小関家の第三子(次男)として生まれました。

6歳の時に母が病気で亡くなり、婿養子だった父は当時のしきたりに従い実家に帰りました。

小堤村(現在の千葉県横芝光町)にあった父の実家・神保家もまた名主だったと伝えられています。

父は実家に帰る時、小関家に忠敬だけを残していきました。そして10歳になった頃、父が忠敬を迎えにやってきます。

その後は17歳になるまで、神保家の父のもとで勉学に励みました。

幼い頃から教育環境に恵まれていたこと、そして生来の聡明さと好奇心旺盛な性格もあり、忠敬は勉強好き(とりわけ数学・天文学、そして文学も)な少年だったと記録されています。

17歳になった忠敬は、親戚である平山家の養子となり、下総国香取郡(千葉県香取市)佐原村で酒造業を営む名主・伊能家の婿養子として、4歳上の女性・ミチと結婚。

忠敬が伊能家に婿入りした頃には家業の経営が停滞気味だったのですが、忠敬は持ち前の知性とリーダーシップを発揮して新規事業拡大などに尽力し、再び繁栄に導きました。

忠敬が辣腕を振るったのは、経営者としてだけではありません。佐原村の名主・村方後見(村長のような役割)も担い、佐原村やその近隣を数々の危機から救ったのです。

45歳になった忠敬は、隠居を決意。

約4年後にようやく領主から隠居が許可されたため、50歳になった忠敬は隠居名・勘解由(かげゆ)と名乗り、心機一転して江戸に上京。

深川黒江町に住み、長年の夢だった天文学を学ぶために19歳下の天文学者・高橋至時に入門します。

至時のもとで天文学・暦学を学ぶ内に地球の大きさを知りたいと思うようになった忠敬は、至時の協力を得て、幕府に蝦夷地(現在の北海道)測量の申請書を提出。

当時はロシアの脅威が迫っていたことから、国防のためという目的を強調したところ、受理されました。

その後忠敬は、55歳から71歳まで、測量隊を引き連れて日本全国を徒歩で測量。

その間、59歳の時には至時が40歳で病死しています。

文政元年(1818)に73歳で亡くなった後は、部下達がその遺志を受け継ぎ、文政4年(1821)に『大日本沿海輿地全図』を完成させました。

忠敬の墓は複数ありますが、その内の一つは忠敬の遺言に従い、台東区東上野・源空寺にある至時の墓の隣に建てられています。

 

伊能忠敬と働きたい理由①何歳からでも「フッ軽」で新しいことにチャレンジ

いくつになってもフットワークの軽い人は、それだけで眩しく感じられるものです。

年齢と共に腰が重くなっていき新しいことを始めるのが億劫になるものですが、忠敬は生涯現役で脅威の行動力を持っていました。

隠居後……つまり定年退職後の50歳で下総の佐原から江戸へ上京し、夢だった天文学の勉強をスタート。

令和の今なら、千葉県から東京都には電車ですぐに行くことができますが、当時の交通環境や平均寿命を考慮すると、かなりフットワークの軽い人だったと言えます(もちろん隠居までに頑張って築いた財力もあってのことでしょう)。

また商人時代、天明の飢饉(1782年~1788年)が起こった際には、関東地方での凶作を予想し比較的豊作だった関西地方に飛んで大量の米を買い付け、村の人々を飢えから救っています(大谷亮吉編著『伊能忠敬』p45ー46)。

その後測量の旅で歩いた総距離は、約4万㎞……地球一周分に相当するというのは有名な話。

やはり若者から憧れられるのは、口よりも手足を動かしている大人でしょう。

べったりと同じ場所に根を張って何百回・何千回と説教や昔の自慢話を繰り返している大人よりも、傷つきながらも前向きに挑戦する姿を見せてくれる大人の方が、尊敬も信頼もできるもの。

ちなみに55歳から17年間も日本全国を測量してまわった実績から、超人的な体力と健康体の持ち主だったと思われがちな忠敬ですが、実は気管支炎と痔の持病に長年悩まされていました。

常に薬を持ち歩き、健康管理には気を遣っていたそうです(渡辺一郎編著『伊能忠敬測量隊』p226)。

 

伊能忠敬と働きたい理由②何歳になっても真っ白な心で学び続ける

年齢を重ねるほどに知識と経験が蓄積されていきますが、それに比例して偏見や思い込みや諦めなど余分なものも頭の中に溜まっていくものです。

実際には何歳になっても“世の中知らないことだらけ”なのですが、子どもと同じように真っ白な心で好奇心を持ち、スポンジのように新しい知識を吸収していくことはなかなか難しいと感じる人も多いのではなでしょうか。

ところが忠敬は、科学大好き少年だった頃の気持ちを全く失っていなかったようです。失っていなかったどころか、商人として長年勤めている間もずっと大切に守り続け、定年退職後に満を持して爆発させたような印象さえあります。

そして、忠敬には財力がありました(これ重要)。

至時のもとでは他のどの学生よりも熱心に勉強に励みつつ、最新式の高額な測量機器を自腹で購入し、自宅を天文台にカスタマイズ。

さらに、至時にとって忠敬は、弟子であるだけでなく強力なスポンサーでもあったようです。

子どもの頃に抱いた夢とロマンを大切に守りながらも、それを実現させるための現実的な戦略も疎かにしない。

そしてそのスキルは、商人として生きる運命を受け入れ、長年努力し続けてきた結果身についたものだと考えられます。

若さを失った分、経験と財力でカバーしながら江戸でキャンパスライフを満喫し“やりたいこと”に突き進む忠敬の生き方は、現代から見ても憧れてしまいます。

伊能忠敬と働きたい理由③プライドを上回る知的好奇心

年齢を重ねた時に一番厄介で邪魔なのは、プライドかもしれません。

間違ったプライドがあると、失敗が怖くなって新しいことに挑戦しにくくなりますし、人に頭を下げられないのでチャンスも掴みにくくなるからです。

一方で忠敬は、19歳も下の天文学者・至時に頼み込んで弟子にしてもらっています。

いくら幕府のエリートとはいえ、親子ほど歳の離れた若者に「弟子にしてください、天文学を基礎から教えてください」と頭を下げるのは、並大抵の覚悟ではないでしょう。

幼い頃から知的好奇心が強く科学少年だった忠敬にとって、「科学>>>>>>>プライド」。

決して「我慢して若造に頭を下げてやってるんでい!」という訳ではなく、心の底からプライドなんかどうでも良かったのかもしれません。

誰よりも勉強熱心な19歳上の忠敬のことを、至時は「推歩先生」(推歩=天文学・暦学)というあだ名で読んでいました。

師匠が弟子のことを先生呼びするというのはジョークのようですが、実は半分本気だったのではないかというのが筆者の考えです。

天文学の専門的な知識や立場は至時の方が上ですが、忠敬の生きる姿勢や学びへの情熱、人生経験、謙虚さ、過去に捉われない柔軟性など、ひとりの若者としての視点から見て学ぶべきことが本当に多かったはずです。

数々の逸話からは、お互いに”天文学の師”と”人生の師”として尊敬しあっていたであろうことが推察され、年齢や立場を超えた精神的な絆の強さが伝わってきます。

至時に弟子入りできた時忠敬は幸運だと思ったのでしょうが、忠敬と出会えた至時もまた幸運だったのではないでしょうか。

現代の日本でも、年功序列が崩壊して実力主義に移行する中で、また定年後再雇用制度も普及する中で、年下の上司のもとで働くケースが増えています。

忠敬のような人が定年後再雇用で職場に入ってきたら、むしろこちらが「学ばせてください!」と頭を下げたくなります。

伊能忠敬と働きたい理由④自分の夢を追いかけつつ世の中のために尽くす

たしかに日本地図を作成する動機は、「地球の大きさを計算したい」という知的好奇心によるものだったと伝えられていますが、やはり「世のため国のために必ずやり遂げなければならない」という使命感も同時に強く感じていたはずです。

忠敬は科学好きなだけでなく、とても真面目で責任感が強く、社会貢献の意識も強い人だったようです。

というのも、伊能家の婿養子として傾きかけていた経営を立て直す傍ら、佐原村の名主・村方後見(現代の村長のような役割)として事あるごとに窮民を救った記録が残されているからです(大谷亮吉編著『伊能忠敬』)。

また天明の飢饉(1782年~1788年)では、忠敬は私財を投げうって佐原村やその近隣の村の救済のために奔走したと記録されています。

比較的豊作だった関西等の地方で米穀を買い付けて村内・近村に安く売ったり、お金を貸したり、地元の資産家を説得して寄付を呼びかけたりと尽力した結果、佐原村と近隣の村ではひとりの餓死者も出さなかっただけでなく暴動も全く起こらなかったそうです。

また水運で栄えていた佐原村では水害が多かったため、数学・測量の知識があった忠敬が利根川堤防改修工事を指揮するなどして活躍することもありました。

忠敬の肖像画は、なぜ商人なのに武士の恰好をしているのかというと、村のために尽くした実績などが認められ、天明3年(1783年)に苗字帯刀を許されたからです。

このような数々の英雄的エピソードから、自分の願望さえ達成されればそれでいい、世の中どうなったっていい、という考えを持つような人には思えません。

ちなみに忠敬の死後約40年後の文久元年(1861年)、当時世界最高峰の地図づくりの技術を持っていたと言われるイギリス海軍が日本地図を作ろうと遠路遥々船でやってきましたが、『大日本沿海輿地全図』の正確さに驚愕し、地図づくりをやめたというエピソードもあります。

日本にも当時の欧米列強にひけ劣らない技術と学問があると知らしめることにより、伊能忠敬の地図は、間接的に国を守ったとも考えられます。

個人的な夢と、国の発展への貢献。この二つが両立できる重要な任務だからこそ、55歳から17年間もかけて雨の日も雪の日も全国を徒歩で測量するという途方もない仕事を成し遂げることができたのではないでしょうか。

また忠敬は当時にしては長生きでしたが、3人の妻や息子、そして師匠の至時など、大切な人を何人も見送っています。自分よりも若い人たちの死を何度も経験する中で、真面目で責任感の強かった忠敬は、きっと自分が生かされている意味や使命について過酷な旅の道中で考えていたのではないでしょうか。

人間は、自分のためだけに頑張るよりも、誰かのためや世の中のために頑張る方が、辛い時でも踏ん張りが効くものです。

もし自分が大好きなこと、かつ世の中の役に立つことを職業にできたら、苦労を苦労と感じなくなり、それはとても幸福な人生と言えるでしょう。

人生50年と言われていた時代に、50歳をすぎて新しい人生のスタートを切り長年の夢を掴んだ忠敬は、その幸せを噛みしめていたのかもしれません。

 

伊能忠敬と働きたい理由⑤修羅場をくぐってきたのでどんなトラブルにも冷静な頼れるリーダー

経営者として村の代表として、そして測量隊隊長として、数々の修羅場をくぐってきた忠敬。

年齢を重ねていく中で立場・肩書きが変わっても、忠敬はいつも周囲の人々からの人望が厚く頼りにされていました。

前述した天明の飢饉の活躍だけではなく、他にも危機を乗り越えてきたエピソードは枚挙に暇がありません。

測量に関しては、隊員の採用に苦戦したり、頼りにしていた副隊長・坂部貞兵衛が亡くなったり、隊員だった次男・秀蔵をクビにしたりするなど、大小様々なトラブルがあったようです。

そして文化9年(1812年)の九州測量中には、娘からの手紙で利根川の大洪水を知り、再び故郷を救済するための指示を出しています(渡辺一郎編著『伊能忠敬測量隊』p246)。

至時の死後は、その息子・景保が忠敬の上司となりました。40歳下の景保からは何かと頼りにされ、上司というよりも手のかかる孫のような存在だったようです。

娘に宛てた手紙には、天文方として優秀ながら精神的な未熟さが目立つ”お坊ちゃま”景保についての愚痴が書かれていました。

同じ手紙には、「私など、幼い頃から高名出世を目指したかったけれど、親に命じられて佐原村に養子に行き、その間好きだった学問はやめて家業を第一に頑張って、伊能家に代々伝わる格言を守り・・・・・・」という趣旨の苦労話が綴られており、人間らしい一面が垣間見えます(大谷亮吉編著『伊能忠敬』p37)。

またお世話になった人々には必ずお礼参りやお返しをするなど、義理堅く礼儀作法を重んじる性格でもあったことが、『江戸日記』にも記録されています(渡辺一郎編著『伊能忠敬測量隊』p228)。

このような社交性と気配りは、さすが元敏腕商人。

とても合理的で妥協を許さない性格をしていたと言われる忠敬ですが、決して冷酷非情という訳ではなかったようです。

厳しくて怖いけれど、人間味もあり気配り上手で面倒見がよく頼りになる父親的な存在。そんな忠敬だったので、年下上司を含め上下関係なく慕われていたのでしょう。

まとめ

破天荒な天才や常人離れしたスーパーマンというよりも、とにかく努力と情熱と忍耐の人だった忠敬。もちろん凄い人だけれど、普通の人間らしさも大いに持ち合わせているので、「頑張ったら自分もほんの少しは忠敬のようになれるかも」と思わせてくれる、絶妙な”憧れの存在”だと言えます。

「仕事は何をするかよりも誰とするかが大事」という格言がありますが、もしも忠敬のような素敵な人と一緒に働けたとしたら、とても幸運なことですよね。

参考:
千葉県ホームページ
香取市ホームページ
大谷亮吉編著『伊能忠敬』(岩波書店)‐国立国会図書館デジタルコレクション
渡辺一郎編著『伊能忠敬測量隊』(小学館)

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ウェブライター。専門家への取材記事、求人広告のライティングなど様々なジャンルで「書く仕事」を行っている。海外ドラマやドキュメンタリーが好きで、エンタメ専門メディアにてレビュー記事も寄稿している。