ボストンキャリアフォーラム立ち上げ秘話(第一話 はじまりのはじまり)
世界最大の日英バイリンガル就職説明会ボストンキャリアフォーラムは、どのように始まったのか?当時の副社長が明かす舞台裏のレポートです。
はじまりのひとこと
「日本から採用担当者を連れてきて、Job Fairをしたらどうですか?」
1986年、それはボストン大学の就職部の担当者が何気なく発した強烈なひとことでした。
今では参加学生数5000人と言われる世界最大の日英バイリンガル就職説明会、ボストンキャリアフォーラムはこんな一言からスタートしました。
当時日経就職ガイドを出版していた(株)ディスコ(以下ディスコ)は、ライバルの就職情報誌が留学生向けに就職情報誌を発刊することになった為に、ディスコも追従しようと計画。
留学生向ガイド誌のアメリカ国内での配布方法の調査、協力要請のために当時のディスコの専務と営業課長がボストン大学を訪れた時に、逆にボストン大学の方から合同企業説明会開催を提案されました。
ちなみに私は当時近隣のブラウン大学の大学院生。通訳のエージェントをしている知人を介してこのディスコの視察アテンドの担当になり、この歴史的発言の生き証人となりました。
ディスコは日経合同企業説明会として既に日本各地でイベントを行っていたので企業説明会のノウハウは充分ありましたが、何せこれが社で初めての海外出張。もちろん社内で英語を話せる社員もなし。
まさかアメリカで就職イベント開催などとは考えてもいませんでした。
あの時、ボストン大学の担当者の一言がなければキャリアフォーラムは生まれていなかったのです。
学生は来てくれるのか
何せ、当時の社員総数50人ほどだったディスコの開闢以来の海外事業だったので、いくつかの関門を突破しなければなりませんでした。
昭和の終わり、アメリカの大学への日本人留学生はまださほど多くありませんでした。
当時はアメリカの大学卒は日本では大卒として認めてもらえず、「まともな」就職はできないと言われていました。
私の留学仲間もほとんど自営業のご家庭出身や親に強いコネがあるなど、就職には心配のない人がほとんどでした。
ただ、時代はバブルの波に乗り、日本人留学生数も年々増加中。そしてアメリカの経営大学院では「日本に学べ」とばかりに盛んに日本研究が行われていました。
「イベントのノウハウはあるので何とかなるかー」そんな見切り発車でしたが学生の動員は死活問題。
全米から留学生を集めるとなるとボストン以外の学生にとって一番のハードルは交通費でした。
第一回目で失敗は許されないと判断したディスコは、全米どこから来ても交通費「全額」を補填するという何とも太っ腹な決断をしました。
米国雇用均等法
当時でもアメリカでは雇用均等法が厳しく施行されており、国籍、人種、性別、年齢で採用選別する事は厳しく禁じられていました。
日本人だけを集める事はできず、国籍も年齢も指定せず「日本語と英語のバイリンガル」というざっくりとした表現にしなければなりませんでした。
日本人留学生でさえ日本企業での採用がはばかられる中、外国人の雇用は日本企業にとってかなり高いハードルでした。
ただ、当時のディスコの社長、加藤宏氏は大変リベラルな考え方を持っており、「優秀な外国人も日本企業に採用してもらい、日本の企業のグローバル化に貢献しようじゃないか」と旗をあげてくれました。
キャリアフォーラム参加資格認定の為に日本語の口頭試験を実施し、日本語ができる学生全てに広く日本での就職機会を提供することにしました。
企業の中にはこの考え方を快く受け入れてくれない所もありましたが、このリベラルな考え方を独自路線で貫き通した結果、キャリアフォーラムが大学関係者から絶大な支持を得て、数多くの後発の企業の追従を許さないバイリンガル採用イベントのトップランナーとなったのです。
企業は参画してくれるのか
前述のように時代は昭和の終わり。
国内の大学の新卒・男子を中心に採用が行われていました。
留学生の採用を躊躇する大きな理由は、国内の社風とそぐわない、新卒採用の研修時期にあわず中途扱いになる、離職率が高いなどでした。
かなり大手の会社でも留学生採用は躊躇していたと聞きました。
前述の社長の加藤宏氏は自ら営業に出て、説得にあたったと言い伝えられています。
営業担当はもちろん、役員総出で企業を「説得」。これはいわゆる「説得」であって、営業ではなかった様です。
「とにかく一度、現地で優秀な留学生やアメリカ人に会ってみて欲しい」「社会貢献の一貫として参画してほしい」「人事担当者が海外出張・視察する良い機会だ」など、あの手この手で説き伏せ、採算を度外視して参画企業を募ったと聞きました。
結果、大手都市銀行、金融機関、メーカーなど36社が集まり、ようやく形になりました。
ちなみに参画企業には事前にアメリカでの採用活動の注意事項を徹底させるよう、日本出発前に米国雇用均等法に関するセミナーを行っていました。
採用担当者がしてはいけない質問や発言など、弁護士を招いて勉強会を行い、各ブース内でも法令遵守されるよう、細心の気をくばりました。
現地のオペレーションはどうするのか
本来はニューヨークやロサンジェルス、シカゴなど留学生の数が多く、航空機の便が良い都市での開催が良いのではないかと考えられていました。
しかし、当時はまだインターネットもないアナログな世の中。
開催時には運営部隊を日本から連れてくるにしても、現地で学生への告知作業もアナログな郵便や電話が必須でした。
登録を受け付けたり、電話で日本語の試験を実施したり、登録証の印刷・発送作業、会場との折衝には、日本と連絡を密に取りながら準備を進める現地オペレーションの協力者が必要でした。
たまたま当時私は大学院の担当教授が長いサバティカル(研究休暇)に出ていた関係で、大学には籍をおくだけの立場になっていました。
そもそも最初からお付き合いしていましたので、そんな流れでボストンなら私がお手伝いできるという事になりました。
ハーバード、MITなど有名校がズラリと並ぶ学術の街だし学生のイベントとしては「ボストン」は響きが良いという事で彼の地でキャリアフォーラムを開催することに!
実に、ボストンでの開催が決まったのは、28歳の不肖私、協力者がボストンにいた・・・こんな偶然でした。
ちなみにこのキャリアフォーラムという名称、通常アメリカではJob Fairと呼ばれていたのですが、Job Fairではちょっとベタすぎると思い、私がいくつかネーミング候補を出した中から決まりました。
今ではキャリアフォーラムは登録商標並の固有名詞となっていて、名前を見るだけでも我が子を思うような気持ちでほっこりいたします。
手探りの準備
キャリアフォーラムの現地オペレーション責任者の私の主な任務は学生の動員と登録業務。
各大学の就職部と留学生課を通して告知、留学生向け就職情報誌を配布して、ハガキや電話で登録を募りました。
まだディスコのアメリカ現地法人がなかったので、現地のオペレーション事務所や学生への交通費補填用小切手の発行などの業務をボストン日本協会(全米最古の日米親善団体)にお願いすると共に、日本協会のオフィスで様々な作業を行っていました。
日本国内の開催との一番の違いは交通費補填でした。
開催当日に交通費の補填資格の有無を見分け、日本協会のスタッフさんに小切手を切ってもらうために、参加者に事前登録証の発行が必須となりました。
まだウインドウズが出る前のDOSの時代でしたが、この時IBMのATコンパチ機のデスクトップコンピュータとドッドマトリックスのプリンターを買ってもらい、見様見真似でデータベースを作成して登録証を印刷して学生に送付する事にしました。
当時NECのパソコン9800機をちょっとだけ使った事があったので、AT機でもできるかなと思って手掛けたのですが、七難八苦の連続。しかしてまるっきり文系の私ではありましたが奇跡的に(!)初代データベースが完成しました。
日中は日本協会のオフィスで電話対応や各大学へ電話。
家に戻る前に電話を自宅に転送して夜間も問い合わせに応じて日本語審査を実施。
夜中に登録者を入力、そして印刷。翌日オフィスから発送。
更に日本国内の営業支援のため、随時学生の登録状況をデータベースで数を確認してFAXで報告しながら本社と電話したり。
そんな生活で開催前は寝る間もないほどでした。
ボストン大学の会場設営に関しては、打ち合わせの為に日本から担当者が来てくれ、受付やブースの作り方のほか、当日のランチのメニューに至るまで細かく取り決めました。
空き時間には近隣の大学や日本レストラン、食料品店などにもポスターを貼ってもらう様にお願いに行き、登録のあった学生さんに電話で来場を確認するなど、「何とか一人でも多くの学生さんを~」と祈るような気持ちでアナログな告知業務を行っていました。
次回は 記念すべき第一回のキャリアフォーラムが開催当日のお話からさせていただきます。